その基経の大臣、男君四人おはしけり。太郎は時平と聞こえけり。左大臣までなり給ひて、三十九にてぞ失せ給ひにける。次郎は仲平と聞こえける、左大臣までなり給ひて、七十一にて失せ給ひにけり。三郎兼平と聞こえける、三位までぞおはしける。四郎忠平の大臣ぞ関白太政大臣までなり給ひて、多くの年来過ぐさせ給ひける。
基経大臣(藤原基経)には、男君が四人いました(五男良平がいたらしい)。長男を時平(藤原時平)と申しました。左大臣までなって(贈太政大臣)、三十九で亡くなりました。次男は仲平(藤原仲平)と申しました、左大臣までなって、七十一で亡くなりました。三男は兼平(藤原兼平)と申しました、三位(従三位)でした。四男忠平大臣(藤原忠平)は関白太政大臣までなって(摂政関白太政大臣)、長年その官にありました。
(続く)