筥王は、父が昔をつくづくと聞きて、今更なる心地して、忍びの涙に咽びけり。ややありて、我、この間祈りし願ひの、叶ふにこそあるべし。窺ひ寄りて、便宜よくは、一刀差し、如何にもならんと思ひ定めて、「御坊は、これにましませ。法師こそ寄らね、童部は近く寄りても、苦しからず。山寺に住めばとて、人を見知らぬは無下なり。近く寄りて、見知らん」とて、赤地柄鞘巻きたる守り刀を、脇に差し隠し、大衆の中を抜け出でて、祐経が後ろ近くぞ、狙ひ寄りける。
筥王は、父(河津祐泰)の昔を余さず聞いて、まるで今のような気がして、忍びの涙に咽びました。しばらくして、わたしが、この間祈った願いが、叶ったのであろう。隙を窺い近付いて、折よき機会あらば、一刀差し、如何にもなろうと覚悟を決めて、「御坊は、ここにおられよ。法師は近寄ることができなくとも、童部なら近く寄っても、差し障りなし。山寺に住むからといって、人を見知らぬのは残念なこと。近く寄って、顔見知りになりましょう」と申して、赤地の錦で、柄鞘を巻いた守り刀を、脇に差し隠し、大衆([僧])の中を抜け出でて、祐経の後ろ近くに、狙い寄りました。
(続く)