さて、佐殿、北の御方取り奉りし江間の小四郎も討たれけり。跡を北条の四郎時政に賜はり、さてこそ、江間の小四郎とも申しけれ。この外、討たるる侍ども、相模の国には、波多野の右馬允、大庭の三郎、海老名の源八、荻野の五郎、上総の国には、上総介、陸奥の国には、秀衡が子どもを始めとして、国々の侍五十余人ぞ討たれける。また、平家には、屋島の大臣殿、右衛門督清宗、本三位の中将重衡を先とし、あるいは、斬られ、自害する族、著すに及ばず。
さて、佐殿(源頼朝)の、北の方(伊東祐親の三女、八重姫)を娶った江間小四郎(北条義時ではない)も討たれました。その跡(遺子)を北条四郎時政(北条時政)に賜わり、そういう訳で、(北条義時を)江間小四郎と申しました(北条義時の母は、伊東入道=伊東祐親。の娘らしいが八重姫かどうかは不明)。このほか、討たれた侍どもは、相模国には、波多野右馬允(波多野義常)、大庭三郎(大庭景親)、海老名源八(海老名季貞)、荻野五郎(荻野俊重。海老名季貞の子らしい)、上総国には、上総介(上総広常)、陸奥国には、秀衡(藤原秀衡)の子ども(藤原国衡、藤原泰衡)をはじめとして、国々の侍五十余人が討たれました。また、平家では、屋島の大臣殿(平宗盛。平清盛の三男)、右衛門督清宗(平清宗。平宗盛の長子)、本三位中将重衡(平重衡。清盛の五男。重衡は南都衆徒に引き渡され斬首された)を先とし、あるいは、斬られ、自害する者どもは、記すまでもありませんでした。
(続く)