源氏には、御舍弟三川守範頼、九郎判官義経、木曽義仲、甲斐の国には、一条の次郎忠頼、小田の入道、常陸の国には、志太の三郎先生を始めとして、以上二十八人、かれこれ討たるる者、百八十余人なり。「この内に、冤貶の者は、わづか三人なり。一条の次郎、三川守、上総介なり。この外は、皆自業自得果なり」とぞのたまひける。さて、鎌倉に居所を占めて、郎従以下軒を並べ、貴賎袖を連ねけり。これや、政要の言葉に、「漢の文王は、千里の馬を辞し、晋の武王は、雉頭の裘を焼く」とは、今の御代に知られたり。民の竃は、朝夕の煙豊かなり。賢王世に出づれば、鳳凰翼を延べ、賢臣国に来たれば、麒鱗蹄を研ぐと言ふ事も、この君の時に知られたり。めでたかりし御事なり。
源氏では、頼朝の弟三川守範頼(源範頼。謀反の疑いで誅殺された)、九郎判官義経(源義経。頼朝の弟)、木曽義仲(源義仲。頼朝とは従兄弟)、甲斐国には、一条次郎忠頼(一条忠頼)、小田入道、常陸国には、志太三郎先生(志太義広=源義広。源為義の子)をはじめとして、以上二十八人、かれこれ討たれた者、百八十余人でした。「この内に、冤貶([冤罪])の者は、わずか三人よ。一条次郎(一条忠頼)、三川守(源範頼)、上総介(上総広常)である。このほかは、皆自業自得果([この善悪の業を原因として起こる結果])である」と申されました。さて、頼朝は鎌倉に居所を占めて、郎従([家来])をはじめ軒を並べ、貴賎の者どもが袖を連ねました。これや、政要(『貞観政要』。唐代に呉兢が編纂したとされる太宗の言行録らしい)の言葉に、「漢の文王(文帝。前漢第五代皇帝)は、千里走るという馬を退け、晋の武王(西晋の初代皇帝、司馬炎。三国時代、魏の司馬懿の孫)は、雉頭の裘(珍宝らしい)を焼く」と、今の時代に伝わっています。人民の竃からは、朝夕の煙豊かでした。賢王が世に現れれば、鳳凰は翼を広げはばたき、賢臣が国にあれば、麒鱗が蹄を研ぎ駆けると言うことも、この君(源頼朝)の時代に知るところとなりました。良い時代でした。
(続く)