「十郎殿は、如何に」と問へば、「和田殿と盃を論じて、只今事出で来ぬ」と申す。さればこそと思ひ、透垣を跳ね越え、兄の居たりける後ろの障子を隔て立ちけり。時致、これにありと知られん為に、筓にて、障子越しに、袴の着際を差しければ、十郎「誰そ」と問ふ。五朗、小声に成りて、「時致、これにあり」と言ふ。十郎聞きて、万騎の兵を後ろに持ちたるより頼もしくぞ思ひける。
「十郎殿(曽我祐成)に、何かあったか」と訊ねると、「和田殿(和田義盛)と盃を論じて([酒席で杯を差す順序を言い争うこと])、今にも事が起こりそうです」と申しました。やはりそうかと思い、五朗(曽我時致)は透垣([板か竹で、少し間をあけて作った垣])を跳ね越え、兄(祐成)がいる後ろの障子を隔てて立ちました。時致は、ここにいると知らせるために、筓([刀の鞘につけてあるへら状のもの。男子が髪をかくのに用いた])で、障子越しに、袴の着際([着物など身につけるものの端の部分])を差せば、十郎(祐成)は「誰だ」と訊ねました。五朗(時致)は、小声になって、「時致は、ここにおります」と言いました。十郎はこれを聞いて、万騎の兵を後ろに持つよりも頼もしく思いました。
(続く)