御寮は、青竹下ろしの館に入り給ひぬ。更長け、世人鎮まりけれども、御酒宴ありけり。朝綱、御気色に参らんとて、取り取りの曲ども申し御徒然慰め奉りけり。君、御盃を控へさせ給ひける時、鹿の音かすかに聞こゆる。「いづくぞ」と、御尋ねありければ、「板鼻の辺」と申す。君聞こし召し、「古の歌人も、「鹿の音近き 秋の山ごえ」とこそ詠みし。夏野に、鹿の鳴くこそ不思議なれ」と仰せ下されければ、
頼朝は、青竹下ろしの館に入りました。夜は更けて、世人は鎮まる頃、酒宴がありました。朝綱(宇都宮朝綱)は、機嫌伺いに参り、取り取りの曲([いろいろと変化する面白みやうまみ])を申して長々と慰めていました。君(源頼朝)が、盃を手に持った時、鹿の声がかすかに聞こえました。「どこからぞ」と、訊ねると、「板鼻(現群馬県安中市)の近くからでございましょう」と申しました。君はこれを聞いて、「昔の歌人も、「鹿の音近き 秋の山ごえ」と詠んでおるが。夏野に、鹿が鳴くとは不思議なことよ」と申しました、
(続く)