ここに、和田の義盛は、鎌倉より帰りけるに、手越川にて行き合ひたり。与一を見れば、顔の気色変はり、駒の足並み速かりければ、義盛、暫く駒を控へ、「何処へぞ」と言ふ。与一、物をも言はで、駒を早めけるが、ややありて、「鎌倉ヘ」とばかり答ふ。「さても、鎌倉には、何事の起こり、三浦には、如何なる大事の出で来候へば、それほどにあわて給ふぞや。いづ方の事なりとも、義盛、離るべからず。御分また、隠すべからず」とて、与一が馬の手綱を取り、隙なく問ひければ、与一申す条、「別の子細にては候はず。曽我の者どもが来たり候ひて、親の敵討たんとて、義直を頼み候ふ間、『適ふまじき』と申して候へば、五朗と申す痴の者が、散々に悪口仕り候ふ。当座に、如何にも成るべかりしを、彼らは二人、某はただ一人候ひし間、敵はで、斯様の子細、上へ申し入れて、彼らを失はん為、鎌倉へ急ぎ候ふ」と言ひければ、和田、これを聞き、暫く物をも言はず。
ここに、和田義盛は、鎌倉より帰るところでしたが、手越川(田越川。現神奈川県逗子市)で行き合いました。与一を見れば、顔色変わり、駒の足並み速く、義盛は、しばらく馬を控え、「どこへ行くのだ」と訊ねました。与一は、物も言ず、なおも駒を早めましたが、しばらくして、「鎌倉ヘ」とばかり答えました。「さて、鎌倉で、何事か起こったか、三浦には、どれほどの大事が起こり、それほどあわてておるのだ。いずれにせよ、この義盛が、供をするぞ。お主もまた、隠さず話せ」と申して、与一の馬の手綱を取り、隙なく訊ねました、与一が申すには、「大したことではありません。曽我の者どもが訪ねて来て、親の敵を討つために、この義直を頼ってきたのです、『無理な話よ』と申せば、五朗(曽我時致)と申す愚か者が、散々に悪口しました。その場で、いかにもと思いましたが、彼らは二人、わたしはただ一人でございましたので、敵わず、この子細を、上へ申し入れて、彼らを失うために、鎌倉へ急いでおるのです」と言うと、和田(義盛)は、これを聞いて、しばらく何も言いませんでした。
(続く)