院の御前に御琵琶、西園寺も弾き給ふ。兼行篳篥、神楽謡ひなどして、事々しからぬしも面白し。こたみは、先づ斎宮の御前に、院自ら御銚子を取りて聞こえ給ふに、宮いと苦しう思されて、頓にもえ動き給はねば、女院「この御土器の、いと心許なく見え侍るめるに、こゆるぎの磯ならぬ御肴やあるべからん」とのたまへば、「売炭の翁はあはれなり。おのが衣は薄けれど」と言ふ今様を謡はせ給ふ。御声いと面白し。宮聞こし召して後、女院御杯を取り給ふとて、「天子には父母無しと申すなれど、十善の床を踏み給ふも、賎しき身の宮仕へなりき。一言報ひ給ふべうや」とのたまへば、「さうなる御事なりや」と、人々目を配せつつ忍びてつきしろふ。「御前の池なる亀岡に、鶴こそ群れ居て遊ぶなれ」と謡ひ給ふ。
院(第八十九代後深草院)の御前には琵琶、西園寺(西園寺実兼)も弾かれました。兼行(楊梅兼行)は篳篥([雅楽の管楽器])、神楽謡いなどして、儀式ばらず趣きがありました。この時、まず斎宮(第八十八代後嵯峨天皇の第二皇女、愷子内親王)の御前に、院自ら銚子を取って謡われると、斎宮(第八十八代後嵯峨天皇の第二皇女、愷子内親王)はたいそう心苦しく思われて、動くことができませんでした、女院(大宮院。第八十八代後嵯峨天皇中宮皇太后、西園寺姞子)が「この盃を受け取るそなたの手が、危うく見えます、こゆるぎの磯(現神奈川県大磯付近の海岸。「急ぎ」に掛かる枕詞)ではありませんが何か一興を」と申せば、院が「売炭の翁はかわいそう。己の衣の色は薄色なのに(『売炭翁』=『炭焼きの老人が苦労して焼いた炭を、宮中の役人に勅命だといってただ同然で買い取られてしまうことを詠じた風刺詩。白居易』)」と言う今様([平安中期までに成立し、鎌倉初期にかけて流行した歌謡])を謡われました。その声はたいそう趣きがありました。斎宮はこれを聞かれると、女院から盃を受け取りました、女院が「天子には父母はなしと申しますが、十善の床を踏むのもまた、賎しき身の宮仕えのようなもの。お返しの言葉の一つも申すべき」と申せば、「まことその通りでございます」と申したので、女房どもは忍んで互いに目配りをしました。斎宮は「御前の池の亀岡に、鶴が群れて遊んでおります」と謡いました。
(続く)