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「太平記」奥州下向勢逢難風事(その1)

吉野には、奥州あうしうの国司安部野あべのにて討たれ、春日の少将せうしやう八幡やはたの城を落とされて、諸卒皆力を失ふといへども、新田殿北国より攻め上る由奏聞したりけるを御頼みあつて、今や今やと待ち給ひけるところに、この人さへ足羽あすはにて討たれぬと聞こへければ、蜀の後主こうしゆ孔明こうめいを失ひ、唐の太宗の魏徴ぎちようこくせしが如く、叡襟えいきん更にをだやかならず、諸卒も皆色を失へり。ここに奥州の住人ぢゆうにん、結城上野入道道忠みちただと申まうしける者、参内して奏し申しけるは、「国司顕家あきいへきやう三年みとせの内に両度まで大軍を動かして上洛しやうらくせられさふらひし事は、出羽奥州あうしうの両国皆国司に従ひて、凶徒その隙を得ざるゆゑなり。国人くにうどの心未だ変ぜざるさきに、宮を一人下しまゐらせて、忠功のともがらにはぢきしやうを行はれ、不忠不烈のやからをば根を切り葉を枯らして、御沙汰候はんには、などか攻め随へでは候ふべき。国の差図さしづを見候ふに、奥州五十四郡ごじふしぐんあた日本につぽんの半国に及べり。もし兵数を尽くして一方にしよくせば、四五十万騎も候ふべし。道忠みちただ宮をさしはさみ奉て、老年のかうべかぶとを頂くほどならば、重ねて京都に攻め上り、会稽くわいけいの恥を清めん事一年ひととせの内をば過ごし候ふまじ」とまうしければ、君を始め奉て左右の老臣悉く、「この議げにも然るべし」とぞ同ぜられける。




吉野では、奥州国司(北畠顕家あきいへ)が阿倍野(現大阪市阿倍野区)で討たれ、春日少将(北畠顕信あきのぶ。北畠顕家の弟)が八幡城(現京都府八幡市)を落とされて、諸卒は皆力を失いましたが、新田殿(新田義貞よしさだ)が北国より攻め上ると聞いて頼みにし、今か今かと待つところに、義貞もまた足羽(足羽城。現福井県福井市)で討たれたと聞こえたので、蜀の後主(劉禅。劉備の子)が孔明(諸葛孔明)を失い、唐の太宗(唐朝の第二代皇帝)が魏徴(唐の政治家)が亡くなった時慟哭したように、叡襟([天子の胸の内])はさらに穏やかではありませんでした、諸卒も皆顔色を失いました。ここに奥州の住人で、結城上野入道道忠(結城宗広むねひろ)と申す者が、参内して奏上するには、「国司顕家卿(北畠顕家)が三年の内に二度まで大軍を動かして上洛されたのも、出羽奥州の両国が皆国司に従い、凶徒はこれを防ぐことができなかったからでございます。国人の心が変わらないうちに、宮を一人下されて、忠功の輩には直に賞を行い、不忠不烈の族の根を切り葉を枯らして、沙汰されたなら、どうして攻めに加わらないことがございましょう。国の差図([地図])を見れば、奥州五十四郡はちょうど日本の半分の広さがございます。もし兵数を尽くして一方に属せば、四五十万騎にもなりましょう。この道忠(結城宗広)が宮をお守りいたしまする、老年の首に兜を頂くことが叶うならば、重ねて京都に攻め上り、会稽の恥を清めること一年の内を過ごすことはございません」と申せば、君(第九十六代後醍醐天皇)をはじめ左右の老臣は一人残らず、「この議もっともなことよ」と同意しました。


続く


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by santalab | 2015-11-03 09:30 | 太平記 | Comments(0)

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