これによつて第八の宮の今年七歳にならせ給ふを、初冠召させて、春日の少将顕信を輔弼とし、結城入道道忠を衛尉として、奥州へぞ下し参らせられける。これのみならず新田左兵衛義興・相摸次郎時行二人をば、「東八箇国を打ち平らげて宮に力を副へ奉れ」とて、武蔵相摸の間へぞ下されける。陸地は皆敵強うして通り難しとて、この勢皆伊勢の大湊に集まつて、船を揃へ風を待ちけるに、九月十二日の宵より、風止み雲収まつて、海上殊に静まりたりければ、舟人纜を解いて、万里の雲に帆を飛ばす。兵船五百余艘、宮の御座舟を中に立てて、遠江の天竜灘を過ぎける時に、海風俄かに吹き荒れて、逆浪たちまちに天を巻き翻す。あるひは檣を吹き折られて、弥帆にて馳する舟もあり。あるひは梶を掻き折りて廻流に漂ふ船もあり。
こうして後醍醐天皇(九十六代天皇)の第八皇子は今年七歳になっておられましたが、初冠([元服して初めて冠をつけること])させて、春日少将顕信(北畠顕信)を輔弼([天子の政治をたすける人])とし、結城入道道忠(結城宗広)を衛尉([宮門警備の衛士の長官])として、奥州へ下されました。これらの者のみならず新田左兵衛義興(新田義興。新田義貞の次男)・相摸次郎時行(相摸時行。相模宗鑒の次男)二人に、「東八箇国を打ち平らげて宮に力を副えよ」と申されて、武蔵相摸に下しました。陸地は皆敵は強く通り難しと、この勢は皆伊勢の大湊(現三重県伊勢市)に集まって、船を揃え風が止むのを待っていましたが、九月十二日の宵より、風は止み雲も切れて、海上はすっかり静まったので、舟人は纜([船尾にあって船を陸につなぎとめる綱])を解いて、万里の雲に帆を上げました。兵船五百余艘は、宮の御座舟を中に立てて、遠江の天竜灘(遠州灘。現静岡県の御前崎から愛知県の伊良湖岬まで)を過ぎていましたが、海風が急に吹き荒れて、逆浪がたちまち立ちました。ある船は帆柱を折られて、弥帆([和船の舳の方に張る小さい帆])で進む船もありました。ある船は舵が折れて廻流に漂う船もありました。
(続く)