暮るればいよいよ風荒く成つて、一方に吹きも定まらざりければ、伊豆の大島・女良の湊・かめ河・三浦・由居の浜・津々浦々の泊に船の吹き寄せられぬはなかりけり。宮の召されたる御舟一艘、漫々たる大洋に放たれて、すでに覆らんとしけるところに、光明赫奕たる日輪、御舟の舳前に現じて見へけるが、風俄かに取つて返し、伊勢の国神風の浜へ吹き戻し奉る。若干の舟ども行方も知らず成りぬるに、この御舟計り日輪の擁護に依つて、伊勢の国へ吹き戻され給ひぬる事只事にあらず。いかさまこの宮継体の君として、九五の天位を践ませ給ふべきところを、忝くも天照太神の示されける者なりとて、たちまちに奥州の御下向を止められ、すなはちまた吉野へ返し入れ進らせられけるに、果たして先帝崩御の後、南方の天子の御位を継がせ給ひし吉野の新帝と申し奉りしは、すなはちこの宮の御事なり。
日が暮れるとますます風は激しくなって、一方に吹きも定まりませんでしたので、伊豆大島・女良の湊(現静岡県賀茂郡南伊豆町妻良)・かめ河(南白亀川?現千葉県)・三浦(現神奈川県三浦市)・由居の浜(由比ヶ浜。現神奈川県鎌倉市)・津々浦々の泊に吹き寄せられぬ船はありませんでした。宮が乗られた舟一艘だけが、漫々たる大洋に放たれて、すでに転覆するところに、光明赫奕([光り輝く様])たる日輪が、舟の舳先に現われたかと見ると、風は急に反対に吹いて、伊勢国の神風の浜(篠島。現愛知県知多郡南知多町)へ船を吹き戻しました。多少の船が行方知れずになりましたが、この舟だけが日輪の擁護によって、伊勢国へ吹き戻されたのは只事ではありませんでした。間違いなくこの宮が継体の君として、九五([天子の位])の天位を践まれると思われました、畏れ多くも天照太神がお示しになられた者であられると、たちまち奥州への下向を止められて、再び吉野に返し入れられました、その通り先帝(第九十六代、南朝初代、後醍醐天皇)崩御の後、南方の天子の位を継がれた吉野新帝と申されるのは(第九十六代後醍醐天皇の皇子、義良親王。第九十七代、南朝第二代、後村上天皇)、つまりこの宮のことです。
(続く)