それ年光不停如奔箭下流水、哀楽互に替はること似紅栄黄落樹。しかればこの世の中の有様、ただ夢とやいはん幻とやいはん。憂喜に感ずれば、袂の露を催す事雖不始今、去年九月に笠置の城破れて、先帝隠岐の国へ被遷させ給ひし後は、百司の旧臣悲しみを抱いて所々に篭居し、三千の宮女涙を流して面々に臥し沈み給ふ有様、まことに憂き世の中の習ひと云ひながら、殊更哀れに聞こへしは、民部卿三位殿の御局にて留めたり。それを如何にと申すに、先朝の御寵愛不浅上、大塔の宮の御母堂にて渡せ給ひしかば、傍への女御・后は、花のあたりの深山木の色香もなきが如くなり。しかるを世の中静かならざりし後は、万引き替へたる九重の内の御住居も不定、荒れのみ増さる浪の上に、舟流したる海士の心地して、寄る方もなき御思ひの上に打ち添ひて、君は西海の帰らぬ波に浮き沈み、泪無隙御袖の気色と承りしかば、空しく傾思於万里之暁月、宮はまた南山の道なき雲に踏み迷はせ給ひて、あこがれたる御住居と聞こゆれど、難託書於三春之暮雁。云彼云此一方ならぬ御歎に、青糸の髪疎かにして、いつの間に老いは来ぬらんと被怪、紅玉の膚消えて、今日を限りの命ともがなと思し召しける御悲しみの遣る方なさに、年来の御祈りの師とて、御誦経・御撫物なんど奉りける、北野の社僧の坊におはしまして、一七日参篭の御心ざしある由を被仰ければ、この折節武家の聞こえも無憚にはあらねども、日来の御恩も重く、今ほどの御有様も御痛はしければ、無情はいかがと思ひて、拝殿の傍らにわづかなる一間を拵へて、世の常の青女房なんどの参篭したる由にて置き奉りけり。
年光([春の光])は矢が飛ぶが如く水の流れのように留まることなく、哀楽が入れ替わるのもまた赤く色付いた葉が黄色くなって落ちるようなもの。この世の中は夢幻のようなものです。憂喜を感じて、袂に露を置くのは今に始まったことではありませんでしたが、去年九月に笠置山の戦い(1331)に敗れて、先帝(第九十六代後醍醐天皇)が隠岐の島に遷された後は、百司の旧臣たちは悲しみを抱いて所々に篭居し、三千の宮女たちは涙を流して面々に伏し沈むのも、憂き世の習いとはいいながら、とりわけ哀れに聞こえるのは、民部卿三位殿局(阿野廉子)でした。というのも、先朝(後醍醐天皇)の寵愛浅からぬ上に、大塔宮(護良親王)の母堂でしたので(護良親王の生母は源親子)、近くの女御・后は、花のあたりの色香もない深山木([奥深い山に生えている木])のようなものでした。けれども世の中に戦が起こった後は、すっかり変わって九重([宮中])の内の住まいも定まらず、荒れた浪の上で、舟を流された海士のような心地がして、頼る方もなく悲しみは募るばかり、君(後醍醐天皇)は西海の帰らぬ波に浮き沈み、涙が袖に隙ないほどに悲しまれていると聞けば、むなしく思いを万里の暁月([明け方の月])に馳せ、宮(大塔の宮)はまた南山の道なき雲に迷われて、望まれての住まいとお聞きしましたが、文を三春([初春・仲春・晩春])の暮れの雁に託すことさえ叶いませんでした。いずれも一方ならぬ悲しみに、青糸([黒くて美しい髪のたとえ])の髪も少なくなって、いつの間には老いが訪れたのかと思われ、紅玉([若く、肌がつやつやして血色のよいこと])の肌も消えて、今日を限りの命とも思える悲しみは遣る方もなく、年来の祈りの師として、誦経・撫物([身の穢れを除くために用いる呪物])などを贈られていた、北野(現京都市上京区にある北野天満宮)の社僧の坊を訪ねて、一七日(七日間)の参篭をしたいと申しました、折節武家の聞こえもよからぬと思われましたが、日頃の恩も重く、今の有様も痛わしくありましたので、情けのないのもいかがと思い、拝殿のとなりにわずか一間を用意して、どこにもいるような青女房([年若く物慣れない身分の低い女官])が参篭したように見せて留め置かれたのでした。
(続く)