下り居給へる太上天皇など聞こゆるは、思ひ遣りこそ、大人びさだ過ぎ給へる心地すれど、いまだ三十にだに満たせ給はねば、万若う愛敬付き、めでたくおはするに、時の大人にて重々しかるべき太政大臣さへ、何わざをせんと、御心に適ふべき御事をのみ思ひ廻しつつ、いいかで珍しからんと、もて騒ぎ聞こえ給へば、いみじう映え映えしき頃なり。御門、まして幼くおはしませば、はかなき御遊びわざより外の御営みなし。摂政殿さへ若く物し給へば、夜昼候ひ給ひて、女房の中に交じりつつ、乱碁・貝覆ひ・手鞠・偏つきなどやうの事どもを、思ひ思ひにしつつ、日を暮らし給へば、候ふ人々も、うち解けにくく心遣ひすめり。
後嵯峨院(第八十八代天皇)は下り居になられて太上天皇などと呼ばれておられました、思い遣り([心遣い])こそ、大人びておられましたが、まだ三十歳にもおなりではございませんでしたので、まだお若くかわいらしいほどに、美しうございますれば、時の重鎮であられた太政大臣(西園寺実氏)も、どうすればよいものか、お心に適うべき事ばかり思いを廻らせて、何とかして楽しんでいただこうと、あれやこれやと催され、たいそう華やかな頃でございました。帝(第八十九代後深草天皇)は、まして幼くございますれば、遊びのほかになさることはございませんでした。摂政殿(一条実経)も若いお方でしたので、夜昼そばにおられて、女房の中に交じりつつ、乱碁([碁盤の上で石をはじいて取る遊び])・貝覆い([同じ貝を探す現代の神経衰弱のようなもの])・手鞠・偏つぎ([偏と旁をつなげる文字遊戯])などのような遊びを、時々にされて、日を暮らしておられました、伺候する人々も、遠慮がちにされておりました。
(続く)