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「太平記」千寿王殿被落大蔵谷事(その1)

足利治部の大輔たいふ高氏たかうぢ敵に成り給ひぬる事、道遠ければ飛脚到来たうらいせず、鎌倉にはかつてその沙汰もなかりけり。かかりしところに元弘げんこう三年五月二日の夜半に、足利殿の次男千寿王せんじゆわう殿、大蔵谷おほくらのやつを落ちて行方ゆきがた不知成り給ひけり。これによつて鎌倉ぢゆうの貴賎、すはや大事出で来ぬるはとて騒動なのめならず。京都の事は道とほきに依つていまだ分明ぶんみやうの説もなければ、毎事無心元とて、長崎勘解由左衛門かげゆざゑもん入道と諏訪すは木工左衛門もくざゑもん入道と、両使ひにて被上けるところに、六波羅の早馬、駿河の高橋にてぞ行き合ひける。「名越なごや殿は被討給ふ、足利殿は敵に成り給ひぬ」とまうしければ、「さては鎌倉の事もおぼつかなし」とて、両使ひは取つて返し、関東くわんとうへぞ下りける。




足利治部大輔高氏(足利高氏)は敵になりましたが、道は遠く飛脚の到来もなく、鎌倉ではまだそのことを知りませんでした。こうして元弘三年(1333)五月二日の夜半に、足利殿(高氏)の次男千寿王殿が、大蔵谷(鎌倉大蔵谷)から逃げて行方知れずになりました。鎌倉中の貴賎の者たちは、何か大事が起こったのではないかとたいそう騒ぎになりました。京都のことは遠く離れていたのでまだ分明([明らかなこと])は分かりませんでしたので、何にせよ不安だと、長崎勘解由左衛門入道(長崎為基ためもと)と諏訪木工左衛門入道(諏訪宗経むねつね)を、使いにして上らせましたが、六波羅の早馬と、駿河の高橋(現静岡県静岡市)で出会いました。「名越殿(北条高家たかいへ)は討たれました、足利殿(高氏)は敵になりました」と知らせたので、「こうなっては鎌倉が心配だ」と申して、二人の使いは取って返し、関東へ下りました。


続く


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by santalab | 2015-11-17 21:58 | 太平記 | Comments(0)

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