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「太平記」南都北嶺行幸の事(その5)

そもそも元亨げんかう以後、しゆ愁へ臣はづかしめられて、天下さらに安き時なし。折節をりふしこそ多かるに、今南都北嶺の行幸、叡願えいぐわん何事やらんとたづぬれば、近年相摸入道さがみにふだうの振る舞ひ、日来の不儀に超過てうくわせり。蛮夷ばんいともがらは、武命に従ふ者なれば、召すとも勅に応ずべからず。ただ山門南都の大衆だいしゆを語らひて、東夷を征罰せられん為の御謀反とぞ聞こへし。これによつて大塔おほたふ二品にほん親王しんわうは、時の貫主くわんじゆにておはせしかども、今は行学かうがくともに捨て果てさせ給ひて、朝暮てうぼただ武勇の御たしなみの外は他事なし。御好みあるゆゑにや依りけん、早業は江都かうと軽捷けいせふにも超えたれば、七尺しつせき屏風びやうぶいまだ必ずしも高しともせず。打ち物は子房しばう兵法ひやうはふを得給へば、一巻いつくわんの秘書尽くされずと云ふ事なし。天台の座主ざす始まつて、義真和尚ぎしんくわしやうよりこの方一百余代、いまだ懸かる不思議の門主もんしゆはおはしまさず。後に思ひ合はするにこそ、東夷征罰の為に、御身を習はされける武芸の道とは知られたれ。




そもそも元亨(第九十六代後醍醐天皇の御宇)以後、主(後醍醐天皇)の愁い臣は辱しめられて、天下はさらに安泰でありませんでした。機会は多くありましたが、今になって南都北嶺の行幸、叡願([天子の御願])は何かといえば、近年相摸入道(北条高時たかとき。鎌倉幕府第十四代執権)の振る舞いは、いままでにも増して不儀を超えていました。蛮夷([東国武士])の者どもは、武命に従う者でしたので、召すとも勅に応じませんでした。ただ山門(比叡山)南都(奈良)の大衆([僧])を味方に付けて、東夷(鎌倉幕府)を征罰するための謀反と聞こえました。これによって大塔二品親王(護良もりよし親王。後醍醐天皇の皇子)は、時の貫主([天台座主])でしたが、今は行学([勤行と学問])ともに捨てられて、朝暮にただ武勇の稽古のみされて他には何もありませんでした。好まれた故か、早業は江都(江都公主。武帝行こう前漢の第七代皇帝の甥の娘)の軽捷([素早いこと])にも超えて、七尺(約2.1m)の屏風さえ飛び越えました。打ち物([太刀])は子房(張良。中国秦漢代の軍略家)の兵法を得て、一巻の秘書(太公望の兵法書)を残らず習得しました。天台座主が始まって、義真和尚よりこの方百余代、いまだこのような不思議の門主はいませんでした。後に思えば、東夷征罰のために、武芸の道を習われたのだと思い知られるのでした。


続く


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by santalab | 2015-11-21 21:22 | 太平記 | Comments(0)

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