閏二月下旬は、佐々木の富士名の判官が番にて、中門の警固に候ひけるが、如何が思ひけん、哀れこの君を取り奉つて、謀反を起さばやと思ふ心ぞ付きにける。されども可申入便りもなうて、案じ煩ひけるところに、ある夜御前より官女を以つて御盃を被下たり。判官これを賜はつて、よき便りなりと思ひければ、潛かにかの官女を以つて申し入れけるは、「上様には未だ知ろし召され候はずや、楠木兵衛正成金剛山に城を構へて立て籠もり候ひし処に、東国勢百万余騎にて上洛し、去んぬる二月の初めより攻め戦ひ候ふといへども、城は剛うして寄せ手すでに引き色に成つて候ふ。また備前には伊東大和の二郎、三石と申す所に城を構へて、山陽道を差し塞ぎ候ふ。播磨には赤松入道円心、宮の令旨を賜はつて、摂津国まで攻め上り、兵庫の摩耶と申す処に陣を取つて候ふ。その勢すでに三千余騎、京を縮め地を略して勢ひ近国に振るひ候ふなり。四国には河野の一族に、土居の二郎・得能弥三郎、御方に参つて旗を挙げ候ふところに、長門の探題上野の介時直、かれに打ち負けて、行き方を不知落ち行き候ひし後、四国の勢悉く土居・得能に属し候ふ間、既に大船を揃へて、これへ御迎ひに参るべしとも聞こへ候ふ。また先づ京都を攻むべしとも披露す。御聖運開かるべき時すでに至りぬとこそ思えて候へ。義綱が当番の間に忍びやかに御出で候ひて、千波の湊より御舟に被召、出雲・伯耆の間、いづれの浦へも風に任せて御舟を被寄、さりぬべからんずる武士を御憑み候ひて、暫く御待ち候へ。義綱乍恐攻め進らせん為に罷り向かふ体にて、やがて御方に参り候ふべし」とぞ奏し申しける。
閏二月下旬には、佐々木富士名判官(佐々木義綱)の番でしたので、中門の警固を勤めていましたが、何を思ったか、この君(第九十六代後醍醐天皇)とともに、謀反を起こす気になりました。けれども申し入れる機会もなく、どうしたものかと考えていましたが、ある夜御前より官女をもって盃が下されました。判官はこれを賜わり、より機会と思い、密かにこの官女を通じて申し入れました、「上様(後醍醐天皇)はいまだ知っておられませんか、楠木兵衛正成(楠木正成)が金剛山に城を構えて立て籠もっておりますところに、東国勢が百万余騎で上洛し、去る二月の初めより攻め戦っておりますが、城の守り固く寄せ手はすでに引き色になっております。また備前では伊東大和二郎が、三石(現岡山県備前市三石)と申す所に城を構えて、山陽道を塞いでおります。播磨には赤松入道円心(赤松則村)が、大塔宮(護良親王)の令旨を賜わって、摂津国まで攻め上り、兵庫の摩耶(現兵庫県神戸市灘区)と申す所に陣を取っております。その勢すでに三千余騎、京に近付き地を略して([略す]=[奪う])勢いを近国に振るっております。四国では河野の一族に、土居二郎(土居通増)・得能弥三郎(得能通言)が、味方に参って旗を挙げました、長門探題上野介時直(北条時直)は、かれらに打ち負けて、行き方知れずに落ちた後、四国の勢は残らず土居・得能に従い付いて、既に大船を揃えて、ここにお迎えに参るとも聞こえております。またまずは京都を攻めるとも噂されております。聖運を開かれるべき時に至ったと思われます。この義綱が当番の間に忍びやかにお出になられて、千波の湊(知夫里島。現島根県隠岐郡知夫村)より舟に召され、出雲・伯耆の間、いずれの浦へも風に任せて舟を寄せられて、頼りになる武士を頼られて、しばらくお待ちくださいませ。この義綱が恐れながら攻め参らせるために向かう振りをして、やがて味方に参りましょう」と奏し申しました。
(続く)