夜いたく深けにければ、里遠からぬ鐘の声の、月に和して聞こへけるを、道しるべに尋ね寄りて、忠顕朝臣ある家の門を叩き、「千波の湊へはいづ方へ行くぞ」と問ひければ、内より怪しげなる男一人出で向かひて、主上の御有様を見進らせけるが、心なき田夫野人なれども、何となく痛はしくや思ひ進らせけん、「千波の湊へはこれよりわづかに五十町許り候へども、道南北へ分れていかさま御迷ひ候ひぬと存じ候へば、御道しるべ仕り候はん」と申して、主上を軽々と負ひ進らせ、程なく千波の湊へぞ着きにける。ここにて時打つ鼓の声を聞けば、夜は未だ五更の初めなり。この道の案内者仕りたる男、甲斐甲斐しく湊の中を走り廻つて、伯耆の国へ漕ぎ戻る商人舟のありけるを、兎角語らひて、主上を屋形の内に乗せ進らせ、その後暇申してぞ止まりける。この男まことに唯人に非ざりけるにや、君御一統の御時に、もつとも忠賞あるべしと国中を被尋けるに、我こそそれにて候へと申す者遂になかりけり。
夜はたいそう更けて、里からさほど遠くない鐘の声が、月の出に合わせて聞こえました、道しるべにと里に尋ね寄り、忠顕朝臣(千種忠顕)はある家の門を叩き、「千波の湊(知夫里島。現島根県隠岐郡知夫村)へはどちらへ行けばよいのだ」と訊ねると、内から怪しげな男が一人出で来て、主上の有様を見ていましたが、心ない田夫野人でさえも、何となく痛わしく思ったのか、「千波の湊へはこれよりわずか五十町(約5km)ばかりでございますが、道は途中で南北へ分れておりますればきっと迷われることでございましょう、道しるべいたします」と申して、主上(第九十六代後醍醐天皇)を軽々と背負い、ほどなく千波の湊に着きました。ここにて時を打つ鼓の声を聞けば、夜はまだ五更([午前三時頃])の初めでした。この道の案内をした男は、甲斐甲斐しく湊の中を走り回って、伯耆国へ漕ぎ戻る商人舟を見つけて、うまく言って、主上を屋形の内に乗せると、その後別れを申して去って行きました。この男はまこと唯人ではなかったのか、君が一統([統一])の御時に、もっとも忠賞あるべきと国中を捜しましたが、我こそその者だと申す者は遂に見つかりませんでした。
(続く)