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「太平記」奥州国司顕家卿並新田徳寿丸上洛の事(その7)

国司利根川とねがはの合戦に打ち勝つて、いきほひやうやく強大きやうだいに成ると云へども、鎌倉になほ東八箇国の勢馳せ集まつて、雲霞の如くなりと聞こえければ、武蔵の府に五箇日逗留とうりうして、密かに鎌倉のやうをぞ窺ひ聞き給ひける。かかるところに、宇都宮左少将公綱きんつな紀清きせい両党千余騎にて国司に馳せくははる。しかれども、芳賀兵衛入道禅可ぜんか一人は国司にしよくせず。公綱が子息加賀寿丸かがじゆまるを大将として、なほ当国たうこく宇都宮の城に立て籠もる。これに依つて国司、伊達・信夫しのぶの兵二万余騎を差し遣はして、宇都宮の城を攻めらるるに、禅可三日がうちに攻め落とされて降参したりけるが、四五日を経て後また将軍方しやうぐんがたにぞ馳せ付きける。この時に先亡せんばう余類よるゐ相摸次郎時行ときゆきも、すでに吉野殿より勅免をかうむりてければ、伊豆いづの国より起こつて、五千余騎足柄・箱根に陣を取つて、相共あひともに鎌倉を攻むべき由を国司の方へてふせらる。




国司(北畠顕家あきいへ)は利根川の合戦に打ち勝って、勢いは強大になりましたが、鎌倉にはなお東八箇国の勢が馳せ集まって、雲霞の如くと聞こえたので、武蔵の国府(現東京都府中市)に五箇日逗留して、密かに鎌倉の様子を探らせました。ここへ、宇都宮左少将公綱(宇都宮公綱)、紀清両党([宇都宮氏の家中の精鋭として知られた武士団])が千余騎で国司(顕家)方に馳せ加わりました。けれども、芳賀兵衛入道禅可(芳賀高名たかな)は国司方に加わりませんでした。公綱の子加賀寿丸(宇都宮氏綱うぢつな)を大将として、なおも当国宇都宮城に立て籠もりました。これに依つて国司、伊達・信夫の兵二万余騎を差し遣わして、宇都宮城を攻めると、禅可は三日のうちに攻め落とされて降参しましたが、四五日を経て後また将軍(足利尊氏)方に馳せ加わりました。この時に先亡(足利直義ただよし。尊氏の同母弟)の余類([残党])相摸次郎時行(相摸時行)も、すでに吉野殿(第九十六代、南朝初代後醍醐天皇)より勅免を蒙っていたので、伊豆国で兵を起こして、五千余騎が足柄・箱根に陣取り、ともに鎌倉を攻める旨を国司(顕家)の方へ牒送([牒状を送って知らせること])しました。


続く


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by santalab | 2015-11-26 07:45 | 太平記 | Comments(0)

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