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「太平記」清氏正儀寄京事(その2)

正儀まさのりしばらく思案して申しけるは、「故尊氏たかうぢきやう、正月十六日じふろくにちの合戦に打ち負けて、筑紫へ落ちてさふらひしよりこの方、朝敵てうてき都を落つる事すでに五箇度に及び候ふ。しかれども天下の士卒、なほ皇天くわうてんを戴く者少なく候ふ間、官軍くわんぐん洛中らくちゆうに足を留むる事を得ず候ふ。さも、一端京都を落とさん事は、清氏きようぢが力を借るまでも候ふまじ。正儀一人が勢を以つても容易かるべきにて候へども、また敵に取つて返されて攻められ候はん時、いづれの国か官軍の助けとなり候ふべき。もし退く事をはぢて洛中にて戦ひ候はば、四国・西国の御敵、兵船を浮かべて跡を襲い、美濃・尾張をはり・越前・加賀の朝敵てうてきども、宇治・勢多より押し寄せて軍を決せば、また天下を朝敵に奪はれん事、たなごころうちにありぬと思え候ふ。ただし愚案短才ぐあんたんさいの身、公儀をしみ申まうすべきにて候はねば、ともかくも綸言りんげんに従ひ候ふべし」とぞ申しける。主上しゆしやうを始めまゐらせて、竹園・椒房せうばう・諸司・諸衛しよゑに至るまで、住み馴れし都の恋しさに後の難儀をば顧ず、「一夜のほどなりとも、雲居くもゐの花に旅寝してこそ、後はその夜の夢を偲ばめ」とのたまひければ、諸卿の僉義せんぎ一同して、明くる年よりは三年北ふさがりなり、節分以前に洛中の朝敵てうてきを攻め落として、臨幸をなし奉るべき由儀定ぎぢやうあつて、つはものどもをぞ召されける。




正儀(楠木正儀。楠木正成の三男)がしばらく思案して申すには、「故尊氏卿(足利尊氏。室町幕府初代将軍)が、正月十六日の合戦に打ち負けて、筑紫へ落ちてより、朝敵(北朝)が都を落ちることすでに五度に及びます。けれども天下の士卒([軍兵])は、なおも皇天([天皇])に降る者少なく、官軍は洛中に留まることができずにおります。たしかに、しばらくの間京都を落とすに、清氏(細川清氏)の力を借りるまでもございません。正儀(楠木正儀)一人の勢を以ってしても容易いことではございますが、また敵(北朝)に取り返されて攻められたなら、いずれの国が官軍の助けとなりましょう。もし退くことを恥として洛中で戦えば、四国・西国の敵は、兵船を浮かべて後から攻め、美濃・尾張・越前・加賀の敵たちが、宇治(現京都市宇治市にある宇治橋)・勢多(現滋賀県大津にある瀬田橋)より押し寄せて軍をすれば、また天下を敵に奪われることは、申すまでもないことでございます。ただし愚案([おろかな考え])短才([才能が乏しいこと])の身であれば、公儀([朝廷])に差し挟み申し上げるべきものではございません、ともかくも綸言([天皇の仰せ言])に従いましょう」と申しました。主上(第九十七代後村上天皇)をはじめ、竹園([竹の園]=[皇族])・諸司・諸衛に至るまで、住み慣れた都が恋しくて後の難儀に思い及ばず、「たとえ一夜でも、雲居([皇居])の花の許に旅寝して、後にその夜の夢をなつかしめばそれでよい」と申したので、諸卿の僉義は一同に決して、明くる年よりは三年間は北塞がりである、節分([立春=陰暦一月一日。の前日])までに朝敵を攻め落として、臨幸をなさるべきと定まり、兵たちを呼び集めました。


続く


by santalab | 2015-11-26 12:19 | 太平記

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