公家の大将には、二条殿・四条の中納言隆俊卿、武将には、石塔刑部卿頼房・細川相摸の守清氏・舎弟左馬の助・和田・楠木・湯浅・山本・恩地・牲川、その勢二千余騎にて、十二月三日住吉・天王寺に勢揃へをすれば、細川兵部の少輔氏春淡路の勢を率して、兵船八十余艘にて堺の浜へ着く。赤松彦五郎範実、「摂津の国兵庫より打つ立てすぐに山崎へ攻むべし」と合図を指す。これを聞きて京中の貴賎、財宝を鞍馬・高雄へ持ち運び、蔀・遣戸を放ち取る。京白川の騒動斜めならず。
公家の大将には、二条殿(二条教基?)・四条中納言隆俊卿(四条隆俊)、武将には、石塔刑部卿頼房(石塔頼房)・細川相摸守清氏(細川清氏)・その弟左馬助(細川頼和)・和田(和田正武)・楠木(楠木正儀。正成の三男)・湯浅(湯浅宗藤?)・山本・恩地・牲川ら、その勢二千余騎で、十二月三日に住吉(現大阪市住吉区にある住吉大社)・天王寺(現大阪市天王寺区にある四天王寺)に勢揃いすれば、細川兵部少輔氏春(細川氏春)は淡路の勢を率して、兵船八十余艘で堺の浜(現大阪府堺市)へ着きました。赤松彦五郎範実(赤松範実)は、「摂津の国兵庫(現兵庫県神戸市兵庫区。大輪田泊)より打ち立ちすぐに山崎(現大阪府三島郡島本町山崎)を攻めるべき」と命じました。これを聞いて京中の貴賎の者どもは、財宝を鞍馬(現京都市左京区にある鞍馬寺)・高雄(現京都市右京区高雄にある神護寺)へ持ち運び、蔀([格子を組み、間に板をはさんだ戸])・遣戸([鴨居=障子・襖などの建具をはめる開口部の上に渡す溝付きの横木。と敷居の溝に沿って開閉する引き戸の板戸])を取り壊しました。京白川(現京都市左京区)の騒動は尋常ではありませんでした。
(続く)