文保二年八月三日、後西園寺の太政大臣実兼公の御娘、后妃の位に備はつて、弘徽殿に入らせ給ふ。この家に女御を立てられたる事すでに五代、これも承久以後、相摸守代々西園寺の家を尊崇せしかば、一家の繁昌恰の天下の耳目を驚かせり。君も関東の聞こへ可然と思し召して、取り分け立后の御沙汰もありけるにや。御齢すでに二八にして、金鶏障の下に傅かれて、玉楼殿の内に入り給へば、夭桃の春を傷める粧ひ、垂柳の風を含める御形、毛娼・西施も面を恥ぢ、絳樹・青琴も鏡を掩ふ程なれば、君の御覚えも定めて類あらじと思へしに、君恩葉よりも薄かりしかば、一生空しく玉顔に近付かせ給はず。深宮の中に向かつて、春の日の暮れ難き事を歎き、秋の夜の長き恨みに沈ませ給ふ。金屋に人なうして、皎々たる残んの燈の壁に背ける影、薫篭に香消えて、蕭々たる暗雨の窓を打つ声、物毎に皆御泪を添ふる媒と成れり。「人生勿作婦人身、百年苦楽因他人」と、白楽天が書きたりしも、理なりと思えたり。
文保二年(1318)八月三日、後西園寺太政大臣実兼公(西園寺実兼)の娘(西園寺禧子)が、后妃の位となられて、弘徽殿([後宮の七殿五舎のうちの一])に入られました。この家に女御を立てられたることすでに五代、これも承久以後、相摸守(北条氏)は代々西園寺の家を尊崇されて、一家の繁昌は天下の耳目を驚かせるほどでした。君(第九十六代後醍醐天皇)も関東(鎌倉幕府)の聞こえを思われて、格別に立后の沙汰がございましたのでしょうか。齢はすでに二八(十六歳)にして、金鶏障([錦鶏の絵が描かれている宮中の襖])の下に傅かれ、玉楼殿([玉で飾った高殿])の内に入られて、夭桃([美しく咲いた桃の花。若い女性の容色の形容に用いる])の春を悩ます粧い([装束や装飾])、垂柳([シダレヤナギ])の風を含める容姿は、毛娼(毛娼(中国古代美人の名)・西施(中国古代四大美女の一)も面を恥じ、絳樹(三国時代の美女の名)・青琴(古代の女神らしい?)も鏡を覆うほどでしたので、君の覚えもきっと格別なものであろうと思えましたが、君恩は葉よりも薄く、一生空しく玉顔([天子の顔])に近付けられることはありませんでした。深宮の壁に向かい、春の日の暮れ難きを嘆き、秋の長夜を恨んでは涙に沈んでおられました。金屋([金殿])には人もなく、皎々([白く光り輝くさま])と光り輝く残んの燈が壁に映す影、薫篭([薫炉]=[香炉])には香も消え、物さびしく夜の雨が窓を打つ音、すべてが涙を誘う媒となりました。「人生生まれて婦人の身になるものではない。百年の苦楽は他人によって決まるのだから」と、白楽天が書いたのも、理と思えました。
(続く)