これを聞きて国司・新田徳寿丸・相摸次郎時行・宇都宮の紀清両党、かれこれ都合十万余騎、十二月二十八日に、諸方皆牒合はせて、鎌倉へとぞ寄せたりける。鎌倉には敵の様を聞きて、とても勝つべき軍ならずと、一筋に皆思ひ切つたりければ、城を固うし底を深くする謀をも事とせず、一万余騎を四手に分けて、道々に出で合ひ、懸け合はせ懸け合はせ一日支へて、各々身命を惜しまず戦ひけるほどに、一方の大将に向かはれける志和三郎杉下にて討たれにければ、この陣より軍破れて寄せ手谷々に乱れ入る。寄せ手三方を囲みて御方一処に集まりしかば、討たるる者は多くして戦ふ兵は少なし。かくては始終叶ふべしとも見へざりければ、大将左馬の頭殿を具足し奉て、高・上杉・桃井以下の人々、皆思ひ思ひに成つてぞ落ちられける。
これを聞いて国司(北畠顕家)・新田徳寿丸(新田義興)・相摸次郎時行(相摸時行)・宇都宮の紀清両党([宇都宮氏の家中の精鋭として知られた武士団])、かれこれ都合十万余騎が、十二月二十八日に、諸方皆牒([文書による通告])に合わせて、鎌倉に寄せました。鎌倉では敵の勢を聞いて、とても勝てる軍ではないと、一筋に皆覚悟を決めて、城を固め柵を掘ることもせず、一万余騎を四手に分けて、道々で出で合い、駆け合わせ駆け合わせ一日防いで、各々命を惜しまず戦いましたが、一方の大将に向かった志和三郎(斯波家長)が杉本城(鎌倉の東方を押さえる山城)で討たれたので、この陣より軍は破れて寄せ手が谷々に乱れ入りました。寄せ手が三方を囲み味方は一所に集まったので、討たれる者が戦う兵よりも多くいました。こうなってはとても敵うとも見えず、大将左馬頭殿(足利義詮)を連れて、高(高重茂)・上杉(上杉朝房)・桃井(桃井直常)以下の人々は、皆思い思いに落ちて行きました。
(続く)