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「太平記」青野原軍事付嚢沙背水事(その14)

顕家あきいへきやうこれを聞きて、般若坂はんにやざかに一陣を張り、都よりの敵に相当あひあたる。桃井もものゐ直常兵の先に進んで、「今度諸人の辞退する討つ手を我ら兄弟ならでは不可叶とて、そのえらびに相当たる事、かつうは弓矢の眉目びぼくなり。この一戦に利を失はば、度々の高名かうみやう泥土でいどまみれぬべし。心ざしを一つに励まして、一陣を先づ攻め破れや」と下知げぢせられしかば、曽我左衛門さゑもんじようを始めとして、究竟くつきやうの兵七百余騎身命を捨てて切つて入る。顕家の卿の兵も、ここを先途と支へ戦ひしかども、長途ちやうどの疲れ武者何かは叶ふべき。一陣・二陣あらけ破れて、数万騎の兵ども、思ひ思ひにぞ成りにける。顕家の卿も同じく在所を知らず成り給ひぬと聞こへしかば、直信なほのぶ・直常兄弟は、大軍を容易く追ひ散らし、その身は無恙都へかへり上られけり。されば戦功は万人の上に立ち、抽賞ちうしやうは諸卒の望みを塞がんと、独りみして待ち給ひたりしかども、更にその功その賞に不中しかば、桃井もものゐ兄弟はよろづ世の中を述懐じゆつくわいして、天下てんがの大変を憑みに懸けてぞ待たれける。懸かるところに、顕家の卿舎弟春日の少将せうしやう顕信あきのぶ朝臣、今度南都を落ちし敗軍を集め、和泉いづみさかひに打ち出でて近隣ををかし奪ひ、やがて八幡山に陣を取つて、いきほひ京洛を呑む。




顕家卿(北畠顕家)はこれを聞いて、般若坂(奈良坂。現奈良県奈良市の北から京都府木津川市木津に出る坂道)に一陣を張り、都からの敵を待ち構えました。桃井直常(桃井直常ただつね)は兵の先を進んで、「今度諸人が辞退する討っ手を我ら兄弟の他になしと、選ばれた者ぞ、弓矢の眉目([名誉])である。だがこの一戦に敗れれば、度々の高名はずべて泥土に塗れよう。心ざしを一つに励まして、一陣をまず攻め破れ」と命じたので、曽我左衛門尉(曽我師助もろすけ)をはじめとして、究竟の兵七百余騎が身命を捨てて切り入りました。顕家卿の兵も、ここを先途([勝敗・運命などの大事な分かれ目])と防ぎ戦いましたが、長旅の疲れ武者では敵うはずもありませんでした。一陣・二陣が散るように破られて、数万騎の兵どもは、散り散りになりました。顕家卿も同じく居場所も知れなくなったと聞こえたので、直信(桃井直信。直常の弟)・直常兄弟は、大軍を容易く追い散らし、その身は無事に都に帰り上りました。なれば戦功は万人の上に立ち、抽賞([功績のあった者を抜き出して賞すること])は諸卒の望みを絶つであろうと、独り笑みを浮かべて待っていましたが、まったく功賞はなく、桃井兄弟は世の中を述懐([愚痴や不平を言うこと])しながら、天下の大変を頼みにして待ちました。そうこうするところに、顕家卿の弟春日少将顕信朝臣(北畠顕信)が、この軍で南都を落ちた敗軍を集め、和泉の境に打ち出でて近隣の者どもを奪い集めて、やがて八幡山(現京都府八幡市)に陣を取りました、その勢いはまさに京洛を呑み込もうとしていました。


続く


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by santalab | 2015-11-29 08:28 | 太平記 | Comments(0)

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