かかるところに、執事師直所々の軍兵を招き集め、「和泉の堺河内は故敵国なれば、さらでだに、恐懼するところに、強敵その中に起こりぬれば、和田・楠木も力を合はすべし。未だ微なるに乗つて早速に退治すべし」とて、八幡には大勢を差し向けて、敵の打つて出でぬ様に四方を囲め、師直は天王寺へぞ被向ける。顕家の卿の官軍ども、疲れてしかも小勢なれば、身命を棄てて支へ戦ふといへども、軍無利して諸卒散り散りに成りしかば、顕家の卿立つ足もなく成り給ひて、芳野へ参らんと心ざし、わづかに二十余騎にて、大敵の囲みを出でんと、自ら破利砕堅給ふといへども、その戦功徒らにして、五月二十二日和泉の堺安部野にて討ち死にし給ひければ、相従ふ兵悉く腹切り疵を被つて、一人も不残失せにけり。顕家の卿をば武蔵の国の越生四郎左衛門の尉奉討しかば、首をば丹後の国の住人武藤右京の進政清これを取つて、兜・太刀・刀まで進覧したりければ、師直これを実検して、疑ふところなかりしかば、抽賞御感の御教書を両人にぞ被下ける。哀れなるかな、顕家の卿は武略智謀その家にあらずといへども、無双の勇将にして、鎮守府の将軍に任じ奥州の大軍を両度まで起こして、尊氏の卿を九州の遠境に追ひ下し、君の震襟を快く奉休られしその誉れ、天下の官軍に先立つて争ふ輩なかりしに、聖運天に不叶、武徳時至りぬるその謂はれにや、股肱の重臣敢へなく戦場の草の露と消え給ひしかば、南都の侍臣・官軍も、聞きて力をぞ失ひける。
そうこうするところに、執事師直(高師直)は所々の軍兵を招き集め、「和泉の境は河内はかつての敵国であり、いっそう、恐れをなすべき、強敵が起こったからには、和田・楠木も力を合わすであろう。まだ勢が付かないうちに一刻も早く退治せよ」と申して、八幡(現京都府八幡市にある岩清水八幡宮)には大勢を差し向けて、敵が打って出ぬように四方を固め、師直は天王寺(現大阪市天王寺区にある四天王寺)に向かいました。顕家卿(北畠顕家)の官軍ども(南朝)は、軍に疲れてしかも小勢でしたので、身命を捨ててて防ぎ戦いましたが、軍に負けて諸卒は散り散りになりました、顕家卿は留まる所なくして、吉野に参ろうと思い、わずかに二十余騎で、大敵の囲みを出ようと、敵を打ち破ろうとしましたが、甲斐もなく、五月二十二日和泉の境安部野(現大阪市阿倍野区)で討ち死にしました、相従う兵も残らず腹を切りあるいは疵を被って、一人残らず失せました。顕家卿は武蔵国の越生四郎左衛門尉に討たれました、首を丹後国の住人武藤右京進政清(武藤政清)が受け取り、兜・太刀・刀まで進覧([目上の人にお目にかけること])すると、師直はこれを実検して、疑うところがなかったので、抽賞([功績のあった者を抜き出して賞すること])を讃える御教書([家司が主の意思を奉じて発給した文書])を両人に下しました。哀れなことでした、顕家卿はその武略智謀に長け武家ではありませんでしたが、無双の勇将にして、鎮守府将軍に任じられて奥州の大軍を両度まで起こして、尊氏卿(足利尊氏)を九州の遠境に追い下し、君(南朝初代、後醍醐天皇)の震襟を快く安められたその誉れは、天下の官軍に先を争う輩もありませんでしたのに、聖運は天に叶わず、武徳([武士の威徳])の時代になって、股肱([主君の手足となって働く、最も頼りになる家来や部下])の重臣は敢えなく戦場の草の露と消えてました、南都(南朝)の侍臣・官軍も、これを聞いて力を失いました。
(続く)