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「太平記」青野原軍事付嚢沙背水事(その16)

かかるところに、執事師直もろなほ所々の軍兵を招き集め、「和泉のさかひ河内は故敵国なれば、さらでだに、恐懼きようくするところに、強敵かうてきその中に起こりぬれば、和田にぎた・楠木も力を合はすべし。未だ微なるに乗つて早速に退治たいぢすべし」とて、八幡やはたには大勢を差し向けて、敵の打つて出でぬやう四方しはうを囲め、師直は天王寺てんわうじへぞ被向ける。顕家あきいへきやう官軍くわんぐんども、疲れてしかも小勢なれば、身命を棄てて支へ戦ふといへども、軍無利して諸卒散り散りに成りしかば、顕家の卿立つ足もなく成り給ひて、芳野よしのへ参らんと心ざし、わづかに二十にじふ余騎にて、大敵の囲みを出でんと、みづから破利砕堅給ふといへども、その戦功いたづらにして、五月二十二日和泉いづみの堺安部野あべのにて討ち死にし給ひければ、相従ふつはもの悉く腹切り疵をかうむつて、一人も不残失せにけり。顕家の卿をば武蔵の国の越生こしふ四郎左衛門しらうざゑもんじよう奉討しかば、首をば丹後の国の住人ぢゆうにん武藤右京うきやうしん政清まさきよこれを取つて、兜・太刀・刀まで進覧したりければ、師直これを実検して、疑ふところなかりしかば、抽賞ちうしやう御感の御教書みげうしよを両人にぞ被下ける。あはれなるかな、顕家の卿は武略智謀その家にあらずといへども、無双ぶさうの勇将にして、鎮守府の将軍しやうぐんに任じ奥州あうしうの大軍を両度まで起こして、尊氏たかうぢの卿を九州の遠境ゑんきやうに追ひ下し、君の震襟を快く奉休られしその誉れ、天下てんが官軍くわんぐんに先立つて争ふともがらなかりしに、聖運天に不叶、武徳時至りぬるその謂はれにや、股肱ここう重臣ちようしん敢へなく戦場の草の露と消え給ひしかば、南都の侍臣・官軍も、聞きて力をぞ失ひける。




そうこうするところに、執事師直(高師直)は所々の軍兵を招き集め、「和泉の境は河内はかつての敵国であり、いっそう、恐れをなすべき、強敵が起こったからには、和田・楠木も力を合わすであろう。まだ勢が付かないうちに一刻も早く退治せよ」と申して、八幡(現京都府八幡市にある岩清水八幡宮)には大勢を差し向けて、敵が打って出ぬように四方を固め、師直は天王寺(現大阪市天王寺区にある四天王寺)に向かいました。顕家卿(北畠顕家)の官軍ども(南朝)は、軍に疲れてしかも小勢でしたので、身命を捨ててて防ぎ戦いましたが、軍に負けて諸卒は散り散りになりました、顕家卿は留まる所なくして、吉野に参ろうと思い、わずかに二十余騎で、大敵の囲みを出ようと、敵を打ち破ろうとしましたが、甲斐もなく、五月二十二日和泉の境安部野(現大阪市阿倍野区)で討ち死にしました、相従う兵も残らず腹を切りあるいは疵を被って、一人残らず失せました。顕家卿は武蔵国の越生四郎左衛門尉に討たれました、首を丹後国の住人武藤右京進政清(武藤政清)が受け取り、兜・太刀・刀まで進覧([目上の人にお目にかけること])すると、師直はこれを実検して、疑うところがなかったので、抽賞([功績のあった者を抜き出して賞すること])を讃える御教書([家司が主の意思を奉じて発給した文書])を両人に下しました。哀れなことでした、顕家卿はその武略智謀に長け武家ではありませんでしたが、無双の勇将にして、鎮守府将軍に任じられて奥州の大軍を両度まで起こして、尊氏卿(足利尊氏)を九州の遠境に追い下し、君(南朝初代、後醍醐天皇)の震襟を快く安められたその誉れは、天下の官軍に先を争う輩もありませんでしたのに、聖運は天に叶わず、武徳([武士の威徳])の時代になって、股肱([主君の手足となって働く、最も頼りになる家来や部下])の重臣は敢えなく戦場の草の露と消えてました、南都(南朝)の侍臣・官軍も、これを聞いて力を失いました。


続く


by santalab | 2015-11-29 08:46 | 太平記

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