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「太平記」六波羅攻の事(その5)

東寺へは、赤松入道円心ゑんしん、三千余騎にて寄せ懸けたり。楼門ろうもん近く成りければ、信濃のかみ範資のりすけあぶみ踏ん張り左右をかへりみて、「誰かある、あの木戸、逆茂木、引き破つて捨てよ」と下知げぢしければ、宇野・柏原かしはばら佐用さよ真島ましまの逸りの若者ども三百余騎、馬を乗り捨てて走り寄り、城の構へを見渡せば、西は羅城門らしやうもんいしずゑより、東は八条河原はつでうがはら辺まで、五六八九寸の琵琶びはかふ安郡やすのこほりなんどをり貫いて、したたかに屏を塗り、前には乱杭らんぐひ・逆茂木を引つ懸けて、広さ三丈余りに堀を掘り、流水りうすゐを堰き入れたり。飛び浸らんとすれば、水の深さのほどを不知。渡らんとすれば橋を引きたり。いかがせんと案じ煩ひたるところに、播磨の国の住人ぢゆうにん妻鹿めが孫三郎まごさぶらう長宗ながむね馬より飛んで下り、弓を差しろして、水の深さを探るに、末弭うらはずわづかに残りたり。さては我が丈は立たんずるものを、と思ひければ、五尺三寸の太刀を抜いて肩に掛け、貫き脱いで投げ捨て、かつはと飛び浸たりたれば、水は胸板むないたの上へも不揚、跡に続ひたる武部の七郎これを見て、「堀は浅かりけるぞ」とて、丈五尺ばかりなる小男こをとこが、無是非飛び入りたれば、水は兜をぞ越えたりける。




東寺(現京都市南区にある教王護国寺)へは、赤松入道円心(赤松則村のりむら)が、三千余騎で押し寄せました。楼門([社寺の入口にある二階造の門])の近くになって、信濃守範資(赤松範資。赤松則村の嫡男)は、鐙踏ん張り左右を振り返って、「誰かおらぬか、あの木戸、逆茂木を、引き破って捨てよ」と命じると、宇野・柏原・佐用・真島の逸り雄([血気にはやる者])の若者ども三百余騎が、馬を乗り捨てて走り寄り、城の構えを見渡せば、西は羅城門([朱雀大路の南端に構えられた大門])の礎より、東は八条河原辺まで、五六八九寸の琵琶甲(現兵庫県加西市琵琶甲町?)、安郡(野洲郡?現滋賀県野洲市)などを彫り貫いて([石や木をくりぬいて穴をあける])、幾重にも屏を塗り、前には乱杭([地上や水底に数多く不規則に打ち込んだくい。昔、それに縄を張り巡らして、通行や敵の攻撃の妨げとした])・逆茂木([敵の侵入を防ぐために、先端を鋭くとがらせた木の枝を外に向けて並べ、結び合わせた柵])を引き懸けて、幅三丈あまりの堀を掘り、流水を湛えていました。飛び浸ろうとしましたが、水の深さのほどを知りませんでした。渡ろうとすれども橋は引いてありました。どうすればよいおのかと考えあぐねているところに、播磨国の住人妻鹿孫三郎長宗(妻鹿長宗)が馬から飛んで下り、弓を差し下ろして、水の深さを探ると、末弭([弓の上端の弦輪つるわをかける部分])がわずかに見えていました。ならば我が丈には及ぶまい、と思い、五尺三寸の太刀を抜いて肩に掛け、貫き([毛皮で作った乗馬用・狩猟用の浅沓])を脱いで投げ捨て、掘に飛び込むと、水は胸板([鎧の胴の最上部の、胸にあたる部分])の上も越えませんでした、後に続いた武部七郎はこれを見て、「堀は浅いぞ」と言って、丈五尺(約150cm)ばかりの小男が、前後をわきまえず飛び入ると、水は兜を越えました。


続く


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by santalab | 2015-12-15 07:09 | 太平記 | Comments(0)

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