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「太平記」大森彦七事(その3)

羅綺らきにだも不勝姿、まことに物痛はしく、未だ一足も土をば不蹈人よと思へて、行き悩みたる有様を見て、彦七不怺、「余りに露も深く候へば、あれまで負ひまゐらせ候はん」とて、まへひざまつきたれば、女房少しも不辞、「便びんなう如何が」と云ひながら、やがて後ろにぞ寄り懸かりける。白玉か何ぞと問ひしいにしへも、かくやと思ひ知られつつ、嵐の伝手に散る花の、袖に懸かるよりもかろやかに、梅花のにほひなつかしく、蹈む足もたどたどしく心も空に浮かれつつ、半町許り歩みけるが、山陰やまかげの月少し暗かりける処にて、さしもいつくしかりつるこの女房、にはかにたけ八尺許りなる鬼と成つて、二つのまなこは朱を溶いて、鏡のおもてそそきけるが如く、上下の歯喰ひ違うて、口脇耳の根まで広くけ、眉はうるしにて百入ももしほ塗つたる如くにしてひたひを隠し、振り分け髪の中より五寸許りなるこうしつのいろこかづひて生ひ出でたり。その重き事大磐石だいばんじやくにて推すが如し。彦七きつと驚いて、打ち棄てんとするところに、この化け物熊の如くなる手にて、彦七が髪を掴んで虚空に挙がらんとす。彦七元来したたかなる者なれば、むずと引つ組んで深田の中へ転び落ちて、「盛長化け物組み留めたり。寄れや者ども」と呼ばはりける声に付いて、跡に下がりたる者ども、太刀・長刀の鞘をはづし、走り寄つてこれを見れば、化け物は掻き消すやうに失せにけり。彦七は若党わかたう・中間どもに引き起こされたれども、忙然ばうぜんとして人心地もなければ、これ直事ただことに非ずとて、その夜の猿楽は止めにけり。




羅綺([羅=薄い絹布、綺=綾織りの絹布])にも優るその姿は、まことにつらそうでした、今まで一足も土を踏んだことがないように思えるほど、歩くのに難儀しているのを見て、彦七(大森盛長もりなが)は黙ってはいられず、「あまりに露が深うございます、あちらまで背負ってあげましょう」と申して、女の前にひざまずけば、女房はちっとも遠慮せず、「恐れ入ります」と言いながら、たちまち背中に倚り懸かりました。白玉かと訊ねた古(『白玉か なにぞと人の 問ひし時 露とこたへて 消えなましものを』。『伊勢物語』)も、このようなものかと思い知られて、嵐に散る花びらが、袖に懸かるよりも軽やかに、梅花の匂いなつかしく、踏む足もたどたどしいほどに心も空に浮かれつつ、半町ばかり進みましたが、山陰の月の光の少し暗がりになった所で、さしも美しいこの女房が、たちまち丈八尺(約2.4m)の鬼となりました、二つの眼は朱を解いて、鏡の面に注いだように赤く光り、上下の牙が突き出して、口は耳の根まで大きく裂け、眉は漆で百回塗ったように黒く太く額を隠し、振り分け髪の中からは五寸ばかりの牛角が、鱗を覆って突き出ていました。鬼の重さは大磐石が乗ったようでした。彦七(大森盛長もりなが)はあっと驚いて、振り落とそうとしましたが、この化け物は熊のような手で、彦七の髪を掴んで攀じ登ろうとしました。彦七は元より猛々しい者でしたので、むずと引っ組んで深田の中へ転び落ちて、「盛長が化け物を組み留めたぞ。寄れや者ども」と叫ぶ声に従い、後に下がっていた者どもは、太刀・長刀を鞘から外し、走り寄って見れば、化け物は掻き消すように失せました。彦七は若党・中間([武士の最下級])どもに引き起こされましたが、ただただ呆けて人心地([人間としての平常の感覚や意識])を失っていましたので、これは只事ではないと、その夜の猿楽は中止になりました。


続く


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by santalab | 2015-12-15 07:21 | 太平記 | Comments(0)

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