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「太平記」大森彦七事(その5)

楠木まうしけるは、「正成まさしげ存命の間、様々のはかりことを廻らして、相摸入道にふだう一家いつけかたぶけて、先帝の宸襟を休めまゐらせ、天下てんが一統に帰して、聖主の万歳ばんぜいあふぐところに、尊氏たかうぢきやう直義ただよし朝臣、忽ちに虎狼こらうの心を挿し挟み、遂に君を傾け奉る。これによつて忠臣義士かばねを戦場にさらともがら、悉く脩羅しゆら眷属けんぞくに成つて瞋恚しんいを含む心無止時。正成彼と共に天下をくつかへさんと謀るに、貪瞋痴とんじんちの三毒をへうして必ずみつつのみつつのつるぎを可用。我ら大勢おほぜい忿怒ふんぬの悪眼を開いて、刹那せつなに大千界を見るに、願ふところの剣たまたま我がてうの内にみつつあり。その一つは日吉大宮ひよしのおほみやにありしを法味ほふみに替へて申し賜はりぬ。今一つは尊氏の許にありしを、寵愛のわらはに入り代はつて乞ひ取りぬ。今一つは御辺の只今腰に指したる刀なり。不知や、この刀は元暦げんりやくいにしへ、平家壇の浦にて亡びし時、悪七兵衛あくしちひやうゑ景清かげきよが海へ落としたりしを江豚いるかと云ふうをが呑みて、讃岐の宇多津うたつおきにて死しぬ。海底にしづんですでに百余年を経て後、漁父ぎよふの綱に被引て、御辺の許へ伝へたる刀な。所詮この刀をだに、我らが物と持つならば、尊氏の代を奪はん事たなごころの内なるべし。急ぎまゐらせよと、先帝の勅定ちよくぢやうにて、正成罷り向かつて候ふなり。早く賜はらん」と云ひも果てぬに、いかづち東西に鳴り渡つて、只今落ち懸かるかとぞ聞こへける。




楠木(楠木正成)が申すには、「この正成が存命の時は、様々の謀を廻らして、相摸入道(北条高時たかとき。第十四代執権)の一家を傾けて、先帝の宸襟を休め参らせて、天下は一統に帰した、聖主の万歳を仰ぐところに、尊氏卿(足利尊氏)・直義朝臣(足利直義。足利尊氏の弟)が、たちまちに虎狼([欲が深く、残忍なことのたとえ ])の心を挿し挟み、遂に君(第九十六代、南朝初代後醍醐天皇)の世を転覆したのだ。そして忠臣義士は屍を戦場に曝し、残らず脩羅(修羅)の眷属([家来])となって瞋恚([自分の心に逆らうものを怒り恨むこと])を含む心は今にいたるまで止むことはない。この正成はこれらの者とともに再び天下を取り戻そうとしておるのだが、貪瞋痴([仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩])の三毒([貪・瞋・痴])を被る故にこれを消すために三つの剣が必要だ。我ら大勢が忿怒の悪眼を開いて、刹那に大千界を見るに、求める剣がたまたま我が朝の内に三つあった。その一つは日吉大宮(現滋賀県大津市にある日吉大社)にあったので法味([読経などの儀式・法要])に替えて申し賜わった。もう一つは尊氏(足利尊氏)の許にあったのを、寵愛の童に入れ替わり請うて我が物とした。あと一つが御辺が今腰に差しておる刀よ。知っておるや、その刀は元暦の昔(元暦二年(1185))、平家が壇の浦(現山口県下関市)で亡んだ時、悪七兵衛景清(藤原景清)が海へ落としたのを海豚と言う魚が呑み込んで、讃岐の宇多津(現香川県綾歌郡宇多津町)の沖で死んだ。海底に沈んですでに百余年を経て後、漁父の綱に懸かり、御辺の許へ伝えたる刀よ。この刀さえ、我らが物となれば、尊氏の代を奪うことなど容易いこと。急ぎ参らせよと、先帝(後醍醐天皇)の勅定にて、この正成が参ったのだ。すぐさま賜わられよ」と言いも果てず、雷が東西に鳴り渡って、今にも落ち懸かるようようでした。


続く


by santalab | 2015-12-16 07:45 | 太平記

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