仁木左京の大夫義長は、さしたる不義はなかりしかども、行迹余りに思ふ様なりとて、諸人に悪まれるに依つて、心ならず御敵になり、伊勢の国に逃げ下つて、長野の城に立て籠もりたりしを、初めは佐々木の六角判官入道崇永・土岐大膳の大夫入道善忠両人討つ手を承り、これを攻めけるが、佐々木は他事に召されて上洛しぬ。土岐一人国に留つて攻め戦ひけれども、義長敢へて城を落とされず。この時また当国の国司北畠源中納言顕信卿、雲出川より西を管領して、兵を出だし隙を窺うて戦ひ挑みし間、一国三つに分かれて、片時も軍の絶ゆる日もなし。かくて五六年を経て後、義長日来の咎を悔いて降参すべき由を申されければ、「この人元より忠功異于他。今また降参せば、伊賀・伊勢両国も鎮まるべし」とて、義長を京都へ返し入られける。これは勢すでに衰へたる後の降参なりしかば、領知の国もなく、相従ひし兵も身に添はず、李陵が在胡の如くにして、旧交の友さへ来たらねば、見る人遠き庭上の花、春は独り春の色なり。鞍馬稀なる門前の柳、秋は独り秋の風なり。
仁木左京大夫義長(仁木義長)には、これといって不義はありませんでしたが、行迹([人がおこなってきた事柄])があまりに度が過ぎて、諸人に憎まれるようになり、心ならずも敵となり、伊勢国に逃げ下って、長野城(現三重県津市にあった山城)に立て籠もりました、はじめは佐々木六角判官入道崇永(六角崇永)・土岐大膳大夫入道善忠(土岐善忠)両人が討手を命じられて、義長を攻めましたが、佐々木(崇永)は他事に呼ばれて上洛しました。土岐(善忠)一人が伊勢国に留って攻め戦いましたが、義長がこれを防いで城を落とされることはありませんでした。この時また当国の国司北畠源中納言顕信卿(北畠顕信)が、雲出川(現三重・奈良県境に位置する三峰山に源を発し、三重県を流れ伊勢湾に注ぐ川)より西を管領して、兵を出し機会を窺って戦いを挑んだので、一国は三つに分かれて、片時も軍が絶える日はありませんでした。こうして五六年を経た後、義長は日頃の罪を悔いて降参すると申すと、「この人は元より忠功は他に勝れておる。今降参すれば、伊賀・伊勢両国も鎮まるであろう」と、義長を京都へ返し入れました。勢がすでに衰えた後の降参でしたので、領知国もなく、従う兵もなく、李陵(中国前漢代の軍人。匈奴を相手に勇戦しながら敵に寝返ったと誤解された悲運の将軍)が胡に降伏した時のように、旧交の友さへ訪ねることはありませんでした、見るは遠く庭上の花、春は独り春を楽しむばかり。鞍馬はごく稀に門前を過ぎて、秋になれば独り秋風に吹かれました。
(続く)