盛長左右を顧て、「あれをば見ぬか」と云はんとすれば、忽ちに風に順ふ雲の如く、漸々として消え失せにけり。ただ楠木が物云ふ声許りぞ残りける。盛長これほどの不思議を見つれども、その心なほも不動、「『一翳在眼空花乱墜す』といへり。千変百怪何ぞ驚くに足らん。たとひ如何なる第六天の魔王どもが来たつて謂ふとも、この刀をば進ずまじきにて候ふ。然らば例の手の裏を返すが如なる綸旨賜はりても無詮。早々面々御帰り候へ。この刀をば将軍へ進らせ候はんずるぞ」と云ひ捨てて、盛長は内へ入りにけり。正成大きに嘲笑うて、「この国たとひ陸地に連なりたりとも道をば容易く通すまじ。まして海上を通るには、遣る事努々あるまじきものを」と、同音にどつと笑ひつつ、西を指してぞ飛び去りにける。
盛長(大森盛長)は左右を返り見て、「あれが見えぬか」と言おうとすると、たちまちに風に吹かれる雲の如く、次第に消え失せました。ただ楠木(楠木正成)の声ばかりが残りました。盛長はこれほどの不思議を見ても、心臆することなく、「『眼が霞んだかありもしないものが見えたような気がするが』と言いました。千変百怪何を恐れることがあろうや。たとえ如何なる第六天の魔王たとひ如何なる第六天([欲界六天の第六で,欲界の最高所])の魔王どもが来て申すとも、この刀を参らす訳にはいかぬ。手の裏を返して([手の平を返す]=[言葉や態度などが、それまでとがらりと変わる])綸旨を賜ろうとも同じこと。早々に各々帰られよ。この刀は将軍(足利尊氏)に参らせるものぞ」と言い捨てて、盛長は内に入りました。正成は大声であざ陸地笑って、「そのようなことはさせぬこの国が大陸に繋がろうとも容易く通すまい。まして海上を通るなど、決して叶わないと思え」と、声を合わせて一斉に笑うと、西を指して飛び去りました。
(続く)