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「太平記」宮方京攻事(その2)

これによつて将軍しやうぐんより飛脚を以つて、越後守師泰もろやすが、石見の三角みすみじやう退治たいぢせんとて居たりけるを、その国はともかくもあれ、先づ京都一大事なれば、夜を日に継いで上洛しやうらくすべき由をぞ告げられける。飛脚の行き帰るほど日数ひかずを経ければ、師泰が参否の左右を待つまでもなしとて、将軍急ぎ福岡を立つて、二千余騎にて上洛し給ふ。入道左兵衛さひやうゑかみこの由を聞きて、さらば京都に勢の付かぬ先に、先ず義詮よしあきらを攻め落とせとて、観応二年正月七日、七千余騎にて八幡山やはたやまに陣を取る。桃井もものゐ右馬の権のかみ直常ただつね、その頃越中ゑつちゆうの守護にて在国したりけるが、兼ねて合図あひづを定めたりければ、同じき正月八日越中を立つて、能登・加賀・越前の勢を相催あひもよほし、七千余騎にて夜を日に継いで攻め上る。折節雪をびたたしく降つて、馬の足も立たざりければ、兵を皆馬より下ろし、かんじきを懸けさせ、二万余人を前に立て、道を踏ませて過ぎたるに、山の雪こほつて鏡の如しなれば、中々馬のひづめを労はらずして、七里半の山中をば馬人容易く越え果てて、比叡山ひえいさんの東坂本にぞ着きにける。




これにより将軍(足利尊氏)より飛脚をもって、越後守師泰(高師泰)は、石見の三角城を退治しようと発向していましたが、その国はともかくも、まずは京都の一大事である、夜を日に継いで上洛すべき旨を告げ知らせました。飛脚の行き帰るほど日数を経れば、師泰の参否を待つまでもないと、将軍は急ぎ福岡を立って、二千余騎で上洛しました。入道左兵衛督(足利直義ただよし。足利尊氏の弟)はこれを聞いて、ならば京都に勢の付かぬ前に、まず義詮(足利義詮。足利尊氏の嫡男)を攻め落とせと、観応二年(1351)正月七日に、七千余騎で八幡山(現滋賀県近江八幡市)に陣を取りました。桃井右馬権頭直常(桃井直常)は、その頃越中の守護として在国していましたが、かねてより合図([取り決め])を定めていたので、同じ正月八日に越中を立って、能登・加賀・越前の勢を集め、七千余騎で夜を日に継いで攻め上りました。折節雪が激しく降って、馬の足も立たなかったので、兵を皆馬より下ろし、橇を懸け、二万余人を前に立てて、道を踏ませながら過ぎましたが、山の雪が凍って鏡のようでしたので、馬の蹄を傷めることなく、七里半の山中を馬人とも容易く越えて、比叡山の東坂本(現滋賀県大津市)に着きました。


続く


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by santalab | 2015-12-22 19:43 | 太平記 | Comments(0)

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