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「太平記」秀詮兄弟討死事(その1)

また同じき年の九月二十八日、摂津の国に不慮の事出で来て、京勢きやうぜい若干そくばく討たれにけり。事の起こりをたづぬれば、当国の守護職をば、故赤松信濃のかみ範資のりすけ、無二の忠戦に依つて将軍よりたまはりたりしを、範資死去の後、嫡子大夫の判官はうぐわん光範みつのり相続してこれを拝領す。しかるを去年宰相さいしやう中将ちゆうじやう義詮よしあきら朝臣あつそん五畿七道ごきしちだうの勢を率して、南方を攻められる時、光範が軍用の沙汰、毎年不足なりと、将軍近習のともがらどもつぶやきけるを、佐々木の佐渡の判官入道にふだう道誉だうよ、よきついでとや思ひけん、南方のいくさ散じて後、光範さしたるとがもなきに、摂津の国の守護職を召し放させるべき由をまうして、すなはち我が恩賞にぞ申し賜りける。光範は今度の軍用と言ひ、合戦と言ひ、忠烈人に越えたりと思ひければ、定めて抜群ばつくんの恩賞をぞ賜らんずらんと思ひけるところに、それこそなからめ、結句二代の忠功を蒙るところなしに、多年管領くわんりやうの守護職を改め替へられければ、憤りを含み恨みが残るといへども、上裁じやうさいなれば力及ばず、謹しんで訴訟をし居たりける。




また同じ康安かうあん二年(1362)の九月二十八日に、摂津国に思いがけない合戦が起こって、京勢(北朝)の兵がわずかばかり討たれました。事の起こりは、当国(摂津国)の守護職([国単位で設置された軍事指揮官・行政官])を、故赤松信濃守範資(赤松範資)が、無二の忠戦(足利尊氏方に付いて武功を上げたらしい)によって将軍(室町幕府初代将軍足利尊氏)より賜りましたが、範資死去の後、嫡子である大夫判官光範(赤松光範)が相続して拝領([目上の人から物をいただくこと])しました。けれども去年宰相中将義詮朝臣(足利義詮。室町幕府第二代将軍)が、五畿七道([五畿=山城・大和・河内・和泉・摂津と七道=東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道])の勢を率いて、南方(南朝)を攻めた時、光範からの軍用(兵糧米)が、毎年不足していると、将軍近習の者たちが噂しているのを、佐々木佐の判官入道道誉(佐々木道誉)は、よい機会だと思ったのか、南方の兵が逃げ失せた後、光範には大した罪はありませんでしたが、摂津国の守護職を召し放させる([領地・官位などを取り上げる])よう申して、すぐに自らの恩賞として賜ったのでした。光範は今度の軍用にしろ、合戦での働きにしろ、忠烈([きわめて忠義心の厚いこと])は人に勝っていると思っていたので、きっと抜群([多くの中で、特に勝れていること])の恩賞([褒美])を賜るものと思っていましたが、恩賞がないばかりでなく、挙句の果て二代の忠功([忠義をつくして立てた功績])に報われることなく、長年管領([領有し、支配すること])してきた守護職を替えられて、怒りを覚え恨みが残りましたが、上裁([上奏されたものに対する天皇の裁可。勅裁])であれば仕方なく、謹しんで訴訟に及びました。


続く


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by santalab | 2015-12-26 07:22 | 太平記 | Comments(0)

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