ここにて敵の分際を問ふに、「楠木はいまだ川を越えず、和田が勢ばかりわづかに五百騎にも不足見へて候ふ」と牛飼ひ童部どもの語りければ、吉田肥前からからと笑うて、「哀れ浅ましや、敵の種をばここにて尽くさすべし。同じくは楠木をも川を越えさせて打ち殺せ」とて、いと閑かに馬を飼うてのさのさとしてぞ居たりける。和田・楠木これを見澄まして、川より西へ下部を四五人遣はして、「南方の御敵は西より寄られ候ふぞ。神崎の橋詰を支へさせ給へ」とぞ呼ばはらせける。佐々木の判官これを聞きて、「敵さては差し違うて後より寄せけり。取つて返して戦へ」とて両方深田なる道一つを一面に打ち並べて、本の橋詰へと馬を西頭になして歩ませ行くところに、楠木が足軽の野伏三百人両方の深田へ立ち渡りて、鏃を支へ散々に射る。両方は深田にて馬の足も立たず、後より返して広みにて戦へと、先陣の勢に制せられて、後陣より返さんとするところに、和田・楠木・橋本・福塚、五百余騎抜き連れて追ひ駆けたり。中津川の橋詰にて、白江の源次六騎踏み止まつて討ち死にしける。これぞ案内者なれば、足立ちの善悪をも弁へて一軍も詮ずると、佐々木がかねてより頼みける国人の中白一揆五百余騎、一戦も戦はず、物の具・太刀・刀を取り捨てて、川中へ皆飛び漬る。始めはさしも義勢しつる吉田肥前、真つ先に橋を渡つて逃げけるが、続く敵を渡さずとやしたりけん、橋板一間引き落としてければ、後に渡る御方の兵三百余騎は、皆水に溺れてぞ流れける。
ここで敵の分際(人数)を訊ねると、「楠木(楠木正儀。楠木正成の三男)はまだ神崎川を越えていません、和田(和田正武)の勢ばかりで五百騎にも足りていないように思われます」と牛飼い童部([牛を使って牛車を進ませる者])たちが話したので、吉田肥前(吉田秀長)は大声で笑って、「哀れなほど情けないの、敵を一人残らずここで討ち尽くしてしまえ。同じく楠木(正儀)も川を越えさせて打ち殺せ」と言って、とても静かに馬に食ませながら余裕綽々でした。和田(正武)・楠木(正儀)はこれを見て、川より西へ下部([召使い])を四五人遣って、「南方(南朝)の敵は西より近付いているぞ。神崎の橋詰([橋の際])を守れ」と大声で叫ばせました。佐々木判官(京極秀詮)はこれを聞いて、「敵は向きを変えて西より近付いている。馬を返して戦え」と言って左右両方が深田の道一面に馬を並べて、本の橋詰へと馬を西頭(西向き)にして歩ませて行くところに、楠木(正儀)の足軽([歩兵])の野伏([武装農民集団])三百人が左右両方の深田に入って、矢を散々に射ました。両方は深田でしたので馬の足も立たず、後ろより馬を返して広い場所で戦えと、先陣の勢を押し留めて、後陣より馬を返そうとするところに、和田(正武)・楠木(正儀)・橋本・福塚らが、五百騎余りを連れて追い駆けました。中津川(現在の淀川本流)の橋詰で、白江源次六騎が留まって討ち死にしました。白江源次は案内者([物事の内容・事情などをよく知っている者])でしたので、足立ち([人馬の足の立つところ])の可否もよく知っていて戦にも計略を持っている者として、佐々木(京極秀詮)がかねがね頼りにしていた国人でしたが白一揆五百騎余りは、一戦も戦うことなく、物の具([武具])・太刀・刀を捨てて、川の中へ皆飛び込みました。はじめあれほど義勢([見せかけだけの勢い])があった吉田(秀長)も、真っ先に橋を渡って逃げ出しましたが、続く敵を渡さないように、橋板一間を引き落としたので、後から渡る味方の兵三百騎余りは、皆水に溺れて流されてしまいました。
(続く)