これらをこそ、すはや大地震の験に、国々の乱出で来ぬるはと驚き聞くところに、京都に希代の事あつて、将軍の執事細河相摸の守清氏・その弟左馬の助・猶子仁木中務の少輔、三人ともに都を落ちて、武家の怨敵となりにけり。事の根元を尋ぬれば、佐々木の佐渡の判官入道道誉と、細河相摸の守清氏と内々怨みを含む事ありしに依つて、遂に君臣豺狼の心を結ぶとぞ聞こへし。先づ加賀の国の守護職は、富樫の介、建武の始めより今に至るまで一度も変ずる事なくして、しかも忠戦異他成敗依不暗、恩補列祖に復せしを、富樫の介死去せし刻みその子いまだ幼稚なりとて、道誉、尾張の左衛門の佐を聟に取つて、当国の守護職を申し与へんとす。細河相摸の守これを聞いて、さる事やあるべしとて富樫の介が子を取り立て、すなはち守護安堵の御教書をぞ申すなりける。これによつて道誉が鬱憤その一つなり。
これらこそ、大地震(正平地震(1361))を験([前兆])として、国々の乱が起こったと驚き聞くところに、京都に希代の出来事があり、将軍(室町幕府第二代、足利義詮)の執事細河相摸守清氏(細川清氏)・その弟左馬助(細川頼和)・猶子仁木中務少輔(仁木国行?)、三人ともに都を落ちて、武家の怨敵となりました。事の根元を尋ねれば、佐々木佐渡判官入道道誉(佐々木道誉)と、細河相摸守清氏(細川清氏)は内々怨みを抱いていたので、遂に君臣豺狼([残酷で欲深い人])の心を結んだということでした。まず加賀国の守護職は、富樫介が、建武(1334~1338)のはじめより今に至るまで一度も変わることなくして、しかも忠戦は他の者に勝れ成敗([執政])にも勝れていたので、列祖([代々の祖先])より恩補([恩賞として職に任ぜられること])していましたが、富樫介が死去した時その子は幼稚であると、道誉は、尾張左衛門佐(斯波氏頼)を婿にして、当国の守護職を与えようとしました。細河相摸守(細川清氏)はこれを聞いて、そのようなことをさせまいと富樫介の子を取り立て、たちまち守護安堵の御教書([主の意思を奉じて発給した古文書])を下されるよう申しました。これによって道誉の鬱憤の一つとなりました。
(続く)