さるほどに仁木中務の少輔は、京より伊勢へ落ちて、相摸の守に相従ふと聞こへ、兵部の少輔氏春は、京より淡路へ落ちて国中の勢を相付けて、相摸の守に力を合はせ、兵船を調へて堺の浜へ着くべしと披露あり。摂津国源氏松山は、香下の城を拵へて南方に牒し合はせ、播磨路を差し塞いで、人を通はせずと聞こへければ、一方ならぬ蜂起に、京都以外に周章して、すはや世の乱出で来ぬと危ぶまぬ人もなかりけり。宰相の中将殿は畿内の蜂起を聞いて、「近国はたとひ起こるとも、坂東静かなれば、東八箇国の勢召し上せて退治せんに、何ほどの事かあるべし」とて、強ちに騒ぐ気色もなかりけるところに、康安元年十一月十三日、関東より飛脚到来して、「畠山入道道誓、舎弟尾張の守御敵になつて、伊豆の国に立て籠り候ふ間、東国の路塞がつて、官軍催しに応じず」とぞ申しける。
そうこうするほどに仁木中務少輔は、京から伊勢へ落ちて、相摸守(細川清氏)に従うと聞こえたので、兵部少輔氏春(細川氏春)は、京より淡路に落ちて国中の勢を付けて、相摸守(細川清氏)に力を合わせ、兵船を調えて堺の浜(現大阪府堺市)へ着くと知らせました。摂津国の源氏松山(松山左馬頭)は、香下城(現兵庫県三田市)を造り南方(南朝)に牒し合わせ([文書による通告])、播磨路を差し塞いで、人を通わせずと聞こえたので、並々でない蜂起に、京都の外までさわぎになって、世の乱が起こるのではないかと危ぶまない人はいませんでした。宰相中将殿(足利義詮。足利尊氏の嫡男)は畿内の蜂起を聞いて、「近国がたとえ起こるとも、坂東が静かならば、東八箇国の勢を召し上せて退治すればよい、何の心配もいらぬ」と申して、わずかも騒ぐことはありませんでしたが、康安元年(1361)十一月十三日に、関東より飛脚が到来して、「畠山入道道誓(畠山国清)、舎弟尾張守(畠山義深)が敵となって、伊豆国に立て籠っております、東国の路は塞がって、官軍は集まりません」と申しました。
(続く)