さらでだに山立ち多き鈴鹿山を、飼ひたる馬に白鞍置いて被召たらんは、中々道の可為讎とて、御馬を皆宿の主に賜うて、門主は長々と蹴垂れたる長絹の御衣に、檳榔の裏なしを被召、経超僧都は、袙重ねたる黒衣に、水精の念珠手に持つて、歩み兼ねたる有様、如何なる人もこれを見て、すはやこれこそ落人よと、思はぬ者は不可有。されども山王大師の御加護にや依りけん、道に行き逢ひ奉る山路の樵、野径の蘇、御手を引き御腰を推して、鈴鹿山を越え奉る。さて伊勢の神官なる人を、平に御頼みあつておはしましけるに、神官心あつて身の難に可遇をも不顧、とかく隠し置き進らせければ、ここに三十余日御忍びあつて、京都少し静まりしかば還御成つて、三四年が間は、白毫院と云ふ処に、御遁世の体にてぞ御坐ありける。
そうでなくとも山深い鈴鹿山([鈴鹿峠]=[現滋賀・三重県境にある峠])を、飼い馬に白鞍([鞍の前輪・後輪しづわに銀を張ったもの])を置き乗って通っては、とてもたどり着けまいと、馬を皆宿の主に与えて、門主(梶井二品親王。第九十三代後伏見天皇の第六皇子、承胤法親王)は長々と裾引くほどの長絹([長絹の直垂])=[織物の名])の衣に、檳榔([檳榔毛]=[檳榔の葉を裂いて糸のようにしたもの])の裏なしを召し、経超僧都は、袙([男子の中着])を重ねた黒衣([僧衣])に、水晶の念珠を手に持って、歩くに難儀する姿は、誰人もこれを見て、これこそ落人よと、思わぬ者はいませんでした。けれども山王大師([山王権現]=[天台宗の鎮守神])の加護によるものか、道で行き逢った山路の木こり、野径([野路])の草刈りが、手を引き腰を押して、鈴鹿山を越えることができました。そこで伊勢の神官であった人を、ひたすら頼りにされましたが、神官もまた心ある人で身の難に遭うのも顧みず、とにかく隠し置いて、ここに三十余日忍ばれて、京都が少し鎮まれば還御されて、三四年の間は、白毫院(現滋賀県大津市にあった延暦寺坂本里坊庭園)という所に、遁世の体でおられました。
(続く)