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「太平記」赤松入道円心賜大塔宮令旨事

その頃播磨の国の住人ぢゆうにん、村上天皇てんわう第七の御子みこ具平ぐへい親王しんわう六代の苗裔べうえい従三位じゆさんみ季房すゑふさ末孫ばつそんに、赤松の次郎入道円心ゑんしんとて弓矢取つて無双ぶさうの勇士あり。元よりその心闊如くわつじよとして、人の下風したてに立たん事を思はざりければ、この時絶えたるを継ぎすたれたるを興こして、名を顕はし忠を抽きん出ばやと思ひけるに、この二三年大塔おほたふの宮に付き纒ひ奉りて、吉野十津川とつがは艱難かんなんを経ける円心が子息律師則祐そくいう令旨りやうじを捧げて来れり。披覧するに、「不日ふじつに揚義兵率軍勢、可令誅罰朝敵、於有其功者は、恩賞おんしやう宜依請」の由、被戴。委細の事書ことがき十七じふしち箇条の恩裁おんさいを被添たり。条々いづれも家の面目、世の所望しよまうする事なれば、円心不斜悦うで、先づ当国佐用さよしやう苔縄こけなはの山に城を構へて、与力のともがら相招あひまねく。その威漸やうやく近国に振るひければ、国中のつはものども馳せ集まつて、無程その勢一千余騎に成りにけり。ただしんの世すでに傾かんとせしつひえにのつとつて、陳勝ちんしようが異蒼頭さうとうにして大沢だいたくに起こりしに異ならず。やがて杉坂・山の里さと二箇所に関を居ゑ、山陽せんやう山陰せんいん両道りやうだうを差し塞ぐ。これより西国さいこくの道止まつて、国々の勢上洛しやうらくする事を得ざりけり。




その頃播磨国の住人に、村上天皇(第六十二代天皇)の第七皇子具平ともひら親王より六代の苗裔([子孫])、従三位季房(源季房)の末孫([末裔])に、赤松次郎入道円心(赤松則村のりむら)と申して弓矢取っては無双の勇士がいました。元よりその心は広く、人の下風([他の支配を受ける低い地位])に立とうとは思っていませんでした、時に絶えた一族を継ぎ廃れた家を興こして、名を顕わし忠に抜き出ようと思っていました、この二三年大塔宮(護良もりよし親王)に仕えていましたが、吉野十津川の艱難([困難に出あって苦しみ悩むこと])を経て円心の子息律師則祐(赤松則祐)が、令旨を捧げて来ました。広げてみれば、「日を置かず義兵を上げ軍勢を率して、朝敵を誅罰せしめよ、その功があった者には、恩賞を望むままに与える」と、書かれてありました。詳しい事書([箇条書き])については十七箇条の恩裁([裁許])が添えられていました。条々いずれも家の面目、世が所望([望み願うこと])することでしたので、円心はたいそうよろこんで、まず当国佐用庄の苔縄山(現兵庫県赤穂郡上郡町)に城を構えて、与力の輩を集めました。その威をようやく近国に振るうようになって、国中の兵どもが馳せ集まって、ほどなくその勢は一千余騎になりました。ただ秦の世がすでに傾き力が弱まるとともに、楚の陳勝([秦代末期の反乱指導者])が蒼頭([兵卒])として大沢郷(現安徽省宿州市)に起こったのと同じでした。やがて杉坂(現兵庫県佐用郡佐用町)・山の里(現兵庫県赤穂郡上郡町)二箇所に関を構え、山陽・山陰両道を塞ぎました。これより西国の道は塞がって、国々の勢は上洛することができませんでした。


続く


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by santalab | 2016-01-05 20:28 | 太平記 | Comments(0)

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