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「太平記」三浦大多和合戦意見の事(その5)

その外譜代奉公の郎従らうじゆう一言いちごん芳恩はうおんの軍勢ども、三百余人引つ返し、討ち死にしける間に、大将四郎左近の大夫入道は、その身に無恙してぞ山内やまのうちまで被引ける。長崎二郎高重たかしげ久米河くめがはの合戦に、組んで討つたりし敵の首二つ、切つて落としたりし敵の首十三、中間ちゆうげん・下部に取り持たせて、鎧に立つところのをも未だ抜かず、疵のろより流るる血に、白糸の鎧忽ちに火威ひをどしに染め成して、閑々しづしづと鎌倉殿の御屋形へ参り中門に畏りたりければ、祖父おほぢの入道世にも嬉しげに打ち見て出で迎ひ、自ら疵を吸ひ血を含んで、泪を流してまうしけるは、「古きことわざに『見子不如父』いへども、我先づなんぢを以つて、うへの御用に難立者なりと思つて、常に不孝をくはへし事、おほきなる誤りなり。なんぢ今万死を出でて一生いつしやうに遇ひ、かたきくだきける振る舞ひ、陳平ちんべい張良ちやうりやうが為難処をきはめ得たり。相構あひかまへて今より後も、我が一大事と合戦して父祖の名をもあらはし、守殿かうのとのの御恩をもはうじ申し候へ」と、日来の庭訓ていきんひるがへして只今の武勇ぶようを感じければ、高重かうべを地に付けて、両眼りやうがんに泪をぞ浮かべける。




そのほか譜代([代々])奉公の郎従([家来])、一言芳恩([一言声をかけられた恩に感じ,主と仰ぐこと])の軍勢ども、三百余人が引き返し、討ち死にする間に、大将四郎左近大夫入道(北条泰家やすいへ)は、無事に山内(山ノ内。現神奈川県鎌倉市)まで引き退きました。長崎二郎高重(長崎高重)は、久米川の合戦で、組んで討った敵の首二つ、切って落とした敵の首十三を、中間([武士の最下級])・下部([召使い])に持たせて、鎧に立つ矢も抜かず、疵のろ(疵の漏?)から流れる血で、白糸の鎧はたちまちに火威しに染まり、閑々と鎌倉殿の屋形へ参り中門に畏れば、祖父入道(長崎円喜ゑんき)はまことうれしそうに見て出で迎え、自ら疵を吸い血を含んで、涙を流して申すには、「古い諺に『子を心配すること父をおいてなし』と申すが、わしはお前なしに、上の御用に立つことはあるまいと思いながら、お前には厳しく当ってきたことを、とても後悔しておる。お前が今万死を逃れ一生を得、敵を討ち取ったことは、陳平([中国秦末から前漢初期にかけての政治家・軍師])・張良([秦末期から前漢初期に活躍した政治家 ・軍師])が(劉邦の)難所を救ったに等しい。心して今より後も、わしの一大事と合戦して父祖の名も上げ、守殿(鎌倉幕府第十四代執権、北条高時たかとき)のご恩に報いよ」と、日来の庭訓([家庭教育])とはうって変わって高重の武勇を褒めたので、高重は頭を地に付けて、両眼に涙を浮かべました。


続く


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by santalab | 2016-01-06 06:48 | 太平記 | Comments(0)

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