その後畠山阿波の将監国清、頻りに、「御兄弟ただ御仲直り候ひて、天下の政務を宰相殿に持たせ進らせられ候へかし」と申しけるを、禅門許容し不給ければ、国清大に怒つて、己が勢七百余騎を引き分けて、将軍へぞ参りける。この外縁を尋ねて降人になり、五騎十騎打ち連れ打ち連れ、将軍方へと参りける間、かくては越前に御坐候はん事は叶はじと、桃井頻りに勧め申されければ、十月八日高倉禅門また越前を立つて、北陸道を打ち通り、鎌倉へぞ下り給ひける。
その後畠山阿波将監国清(畠山国清)は、しきりに、「ご兄弟ですればただ仲直りなさって、天下の政務を宰相殿(足利義詮。足利尊氏の嫡男)に持たせ参らせますよう」と申しましたが、禅門(足利直義。足利尊氏の弟)は許容しなかったので、国清はたいそう腹を立てて、己の勢七百余騎を連れて、将軍(室町幕府初代将軍、足利尊氏)に参りました。国清の外縁を尋ねて降人となり、五騎十騎が打ち連れ打ち連れ、将軍方に参ったので、こうなっては越前に留まることは叶わないと、桃井(桃井直常)がしきりに勧め申したので、十月八日に高倉禅門(足利直義)はまた越前を立って、北陸道<を打ち通り、鎌倉に下りました。
(続く)