尹の大納言師賢・万里小路中納言藤房・同じき舎弟季房三四人上臥ししたるを御前に召されて、「この事いかん可有」と被仰出ければ、藤房の卿進んで被申けるは、「逆臣君を犯し奉らんとする時、暫くその難を避けて還つて国家を保つは、前蹤皆佳例にて候ふ。いはゆる重耳は狄に奔り、太王豳に行く。共に王業をなして子孫無窮に光を栄かし候ひき。とかくの御思案に及び候はば、夜も深け候ひなん。早や御忍び候へ」とて、御車を差し寄せ、三種の神器を乗せ奉り、下簾より出衣を出だして女房車の体に見せ、主上を扶け乗せ進らせて、陽明門より成し奉る。
尹大納言師賢(尹師賢)・万里小路中納言藤房(万里小路藤房)・その弟季房(万里小路季房)三四人が上臥し([宮中や院の御所に宿直すること])していましたので御前に召されて、「この事いががあるべき」と申されると、藤房卿が進み出て申すには、「逆臣が君を犯そうとする時、しばらくその難を避けて国家を保つこと、前蹤([前例])すべて佳例([吉例])でございます。かの重耳(文公。中国春秋時代の晋の君主)は白狄(母の故郷)に逃げ、太王(古公亶父。周王朝初代武王の曾祖父。周の先王の一人)は豳に向かいました(正しくは豳から逃れた)。ともに王業をなして子孫は無窮([永遠])栄華を極めました。ためらっておられるほどに、夜が深けてしまいます。急ぎお忍びなさいますよう」と申して、車を差し寄せ、三種の神器を車に乗せ、下簾([牛車の前後の簾の内側にかけて垂らす二筋の長い布])より出衣出絹([寝殿や牛車の簾の下から、女房装束の袖や裾先を出すこと])を出して女房車のように見せ、主上(第九十六代後醍醐天皇)を勧め乗せると、陽明門([大内裏の東面の門])より出て行きました。
(続く)