さるほどに主上笠置御坐あつて、近国の官軍付き随ひ奉る由、京都へ聞こへければ、山門の大衆また力を得て、六波羅へ寄する事もやあらんずらんとて、佐々木の判官時信に、近江一国の勢を相添へて大津へ被向。これもなほ小勢にて叶ふまじき由を申しければ、重ねて丹波の国の住人、久下・長沢の一族らを差し添へて八百余騎、大津東西の宿に陣を取る。九月一日六波羅の両検断、糟谷の三郎宗秋・隅田の次郎左衛門、五百余騎にて宇治の平等院へ打ち出で、軍勢の着到を付くるに、催促をも不待、諸国の軍勢夜昼引きも不切馳せ集まつて十万余騎に及べり。すでに明日二日巳の刻に押し寄せて、矢合はせは可有と定めたりけるその前の日、高橋の又四郎抜け懸けして、独り高名に備へんとや思ひけん、わづかに一族の勢三百余騎を率して、笠置の麓へぞ寄せたりける。
やがて主上(第九十六代後醍醐天皇)は笠置(現京都府相楽郡笠置町)に移られて、近国の官軍が従い付いていると、京都に聞こえたので、山門(延暦寺)の大衆([僧])はまた力を得て、六波羅に寄せることもあろうかと、佐々木判官時信(佐々木時信)に、近江一国の勢を添えて大津(現滋賀県大津市)に向かわせました。これもなお小勢で敵わないと申したので、重ねて丹波国の住人、久下・長沢の一族らを差し添えて八百余騎で、大津東西の宿に陣を取りました。九月一日六波羅の両検断([刑事裁判を司る職])、糟谷三郎宗秋(糟谷宗秋)・隅田次郎左衛門は、五百余騎で宇治平等院(現京都府宇治市にある寺院)に打ち出て、軍勢の着到([出陣命令を受けた諸将が、はせ参じた旨を記した文書])を付けると、催促も待たず、諸国の軍勢が夜昼引きも切らず馳せ集まって十万余騎に及びました。すでに明日二日巳の刻([午前十時頃])に押し寄せて、矢合わせはあるべきと定めたその前日に、高橋又四郎が抜け懸けして、独り高名に預かろうと思ったのか、わずかに一族の勢三百余騎を率して、笠置の麓に寄せました。
(続く)