Santa Lab's Blog


「太平記」鎌倉兵火の事付長崎父子武勇の事(その2)

去るほどに余煙四方しはうより吹き懸けて、相摸の入道殿にふだうどのの屋形近く火懸かりければ、相摸の入道殿千余騎にて、葛西がやつに引き篭り給ひければ、諸大将のつはものどもは、東勝寺とうしようじに満ち満ちたり。これは父祖代々の墳墓の地なれば、ここにて兵どもに防ぎ矢射させて、心閑かに自害せんなり。中にも長崎三郎左衛門入道思元しげん・子息勘解由左衛門かげゆざゑもん為基ためもと二人ににんは、極楽寺の切通きりどほしへ向かつて、責め入る敵を支へて防ぎけるが、敵の鬨の声すでに小町口に聞こへて、鎌倉殿へ御屋形に、火懸かりぬと見へしかば、相随あひしたがふ兵七千余騎をば、なほ本の責め口に残し置き、父子二人が手勢六百余騎を選つて、小町口へぞ向かひける。義貞の兵これを見て、中に取り篭めて討たんとす。長崎父子一所に打ち寄せて魚鱗に連なつては懸け破り、虎韜こたうに別れては追ひ靡け、七八度が程ぞ揉うだりける。義貞のつはものども蜘手・十文字じふもんじに被懸散て、若宮小路わかもやこうぢへさつと引いて、人馬に息をぞ継がせける。




やがて余煙が四方より吹き懸けて、相摸入道殿(北条高時たかとき。鎌倉幕府第十四代執権)の屋形近くに火が懸かったので、相摸入道殿は千余騎で、葛西が谷に引き籠もったので、諸大将の兵どもは、東勝寺(かつて現神奈川県鎌倉市葛西ケ谷にあった寺院)に充満しました。東勝寺は父祖代々の墳墓の地でしたので、ここで兵どもに防ぎ矢を射させて、心静かに自害するためでした。中でも長崎三郎左衛門入道思元(長崎思元)・子息勘解由左衛門為基(長崎為基)二人は、極楽寺(現神奈川県鎌倉市極楽寺にある寺院)の切通しに向かって、攻め入る敵を支えて防いでいましたが、敵の鬨の声がすでに小町口(現神奈川県鎌倉市小町)に聞こえて、鎌倉殿(鎌倉幕府第十六代執権、北条守時もりとき)の屋形に、火が懸かったと見えて、相従う兵七千余騎を、なお元の責め口に残し置き、父子二人(長崎思元・為基)の手勢六百余騎を選って、小町口へ向かいました。義貞(新田義貞)の兵はこれを見て、中に取り籠めて討とうとしました。長崎父子は一所に打ち寄せて魚鱗に連なっては駆け破り、虎韜([六韜りくとうの一。圧倒的な優勢の敵に包囲をされた時の脱出方法])に別れては追い靡け、七八度ほど当てました。義貞の兵どもは蜘手・十文字に駆け散らされて、若宮小路へさっと引いて、人馬に息をぞ継がせました。


続く


[PR]
by santalab | 2016-01-20 08:20 | 太平記 | Comments(0)

<< 「太平記」笠置軍事付陶山小見山...      「太平記」笠置軍事付陶山小見山... >>

Santa Lab's Blog
by santalab
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
ただおし出づるままに の..
by SiNa at 21:40
「義経記」の御紹介記事を..
by Magohati38 at 02:04
すばらしいサイト おかげ..
by johsei1129 at 23:54
青き花咲く大地 気高き..
by 北朝鮮の水爆に十神山も激怒 at 02:50
全然現代語訳できてない
by あ at 02:04
 その島根県(旧出雲国東..
by 民俗学者 at 23:34
うーん、松島からまた仙台..
by 五十嵐洋(秋田県大館市) at 00:51
「下野の室の八嶋にて待て..
by 八島 守 at 12:03
ひょんな事から、このブロ..
by yoshy at 18:50
すみません、日本語の起源..
by 春日 at 21:17
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧