貞直その兵を指し招いて、「今は末々の敵と懸け合つても無益なり」とて、脇屋義助雲霞の如くに控へたる真ん中へ駆け入り、一人も不残討ち死にして屍を戦場の土にぞ残しける。金沢武蔵の守貞将も、山内の合戦に相従ふ兵八百余人被打散我が身も七箇所まで疵を蒙つて、相摸入道のおはします東勝寺へ打ち帰り給ひたりければ、入道不斜感謝して、やがて両探題職に可被居御教書を被成、相摸の守にぞ被移ける。貞将は一家の滅亡日の中を不過と被思けれども、「多年の所望、氏族の規模とする職なれば、今は冥途の思ひ出にもなれか」と、かの御教書を請け取つて、また戦場へ打ち出で給ひけるが、その御教書の裏に、「棄我百年命報公一日恩」と大文字に書いて、これを鎧の引合せに入れて、大勢の中へ懸け入り、終に討ち死にし給ひければ、当家も他家も押し並べて、感ぜぬ者もなかりけり。
貞直(北条貞直)は兵を招いて、「今は末々の敵と駆け合っても仕方ない」と申して、脇屋義助(新田義貞の弟)が雲霞の如く控えた真ん中へ駆け入り、一人も残らず討ち死にして屍を戦場の土に晒しました。金沢武蔵守貞将(金沢貞将)も、山内の合戦で従えた兵八百余人を打ち散らされて自身も七箇所の疵を負い、相摸入道(北条高時。鎌倉幕府第十四代執権)のおられる東勝寺(かつて現神奈川県鎌倉市にあった寺)に戻れば、入道(高時)はたいそう感謝して、すぐに両探題職への御教書([三位以上の公卿または将軍の命を奉じてその部下が出した文書])を作り、相摸守に就けました。貞将は一家の滅亡が今日を過ぎることはないと思いましたが、「多年所望しておった、氏族の規模([手本])とする職よ、今は冥途の思ひ出にもするか」と思って、この御教書を請け取つて、また戦場へ出てゆきました、その御教書の裏に、「我が百年の命を捨て公の一日の恩に報いる」と大きく文字に書いて、これを鎧の引合せ([鎧や腹巻き・胴丸・具足類で、着脱するための胴の合わせ目])に入れて、大勢の中へ懸け入り、終に討ち死にしました、当家も他家も、貞将を誉めない者はいませんでした。
(続く)