同じき日、妙法院二品親王をも、長井左近の大夫将監高広を御警固にて讚岐の国へ流し奉る。昨日は主上御遷幸の由を承り、今日は一の宮被流させ給ひぬと聞こし召し、御心を傷ましめ給ひけり。憂き名も替はらぬ同じ道に、しかも別れて赴き給ふ、御心の中こそ悲しけれ。初めのほどこそ別々にて御下りありけるが、十一日の暮れほどには、一の宮も妙法院も諸共に兵庫に着かせ給ひたりければ、一の宮はこれより御舟に召して、土佐の畑へ可有御下由聞こへければ、御文を参らせ給ひけるに、
今までは 同じ宿りを 尋ね来て 跡なき波と 聞くぞ悲しき
同じ日、妙法院二品親王(宗良親王=尊澄法親王。第九十六代後醍醐天皇の皇子)も、長井左近大夫将監高広(長井高広)を警固に付けて讚岐国へ流しました。昨日は主上(第九十六代後醍醐院)が遷幸されたことを聞き、今日は一の宮(尊良親王。第九十六代後醍醐天皇の皇子)が流されたと聞いて、心を傷めていました。そして妙法院二品親王もまた同じ道に、しかも別れて赴く、心の内は悲しいものでした。初めのほどは(尊良親王)とは別々に下られていましたが、十一日の暮れほどには、一の宮(尊良親王)も妙法院(尊良親王)もともに兵庫に付いて、一の宮はここから舟に乗って、土佐の畑(幡多。現高知県幡多郡)に下られると聞こえたので、文を参らせました、
今まではお互いに宿りを行き来しておりましたが、跡の残らない波の上を行かれるとお聞きしました、これきり逢えないのかと思えば、悲しくて仕方ありません。
(続く)