湊川を過ぎさせ給ふ時、福原の京を被御覧ても、平相国清盛が四海を掌に握つて、平安城をこの卑湿の地に遷したりしかば、無幾程亡びしも、ひとへに上を犯さんとせし驕りの末、果たして天の為に被罰ぞかしと、思し召し慰む端となりにけり。印南野を末に御覧じて、須磨の浦を過ぎさせ給へば、昔源氏の大将の、朧月夜に名を立ててこの浦に流され、三年の秋を送りしに、波ただここもとに立ちし心地して、涙落つるとも思えぬに、枕は浮くばかりに成りにけりと、旅寝の秋を悲しみしも、理なりと被思召。明石の浦の朝霧に遠く成り行く淡路島、寄せ来る浪も高砂の、尾上の松に吹く嵐、跡に幾重の山川を、杉坂越えて美作や、久米の佐羅山さらさらに、今はあるべき時ならぬに、雲間の山に雪見へて、遥かに遠き峯あり。御警固の武士を召して、山の名を御尋ねあるに、「これは伯耆の大山と申す山にて候ふ」と申しければ、暫く御輿を被止、内証甚深の法施を奉らせ給ふ。ある時は鶏唱に抹過茅店月、ある時は馬蹄に踏破板橋霜、行路に日を窮めければ、都を御出であつて、十三日と申すに、出雲の美保の湊に着かせ給ふ。ここにて御船を船装ひして、渡海の順風をぞ待たれける。
湊川(現兵庫県神戸市兵庫区)を過ぎられる時、福原京(現兵庫県神戸市兵庫区)をご覧になられても、平相国清盛(平清盛)が四海([国内])を掌中に収め、平安城(平安京)をこの卑湿([土地が低くて、じめじめしていること])の地に遷して、いくほどなく亡んだのも、ひとえに上(朝廷)をないがしろにした驕りの末に、天に罰せられたのだと、思われるのでした。印南野([兵庫県南部の加古川・明石川二流域にまたがる野])を遠く見て、須磨の浦(現兵庫県神戸市須磨区)を過ぎると、昔源氏大将(光源氏)が、朧月夜との噂が立ってこの浦に流され、三年の秋を送りましたが、わたしのせい故のことと、涙は自然と落ちて、涙が浮くばかりに、旅寝の秋を悲しんだのも、理と思われるのでした。明石の浦(現兵庫県明石市)の朝霧に遠くなり行く淡路島、寄せ来る波も高砂(現兵庫県高砂市)の、尾上の松(現兵庫県加古川市尾上町)に吹く嵐、幾重の山川を、杉坂(杉坂峠。現兵庫・岡山県境にある峠)を越えて行けば美作(現岡山県の北東部)よ、久米の佐羅山(現岡山県津山市)には、今はあるべくもない季節でしたが、雲間の山に雪が見えて、遥か遠くに峰がありました。後醍醐天皇(第九十六代天皇)は警固の武士を呼んで、山の名を訊ねられました、「あれは伯耆の大山(現鳥取県西部にある火山)と申す山でございます」と申せば、しばらく輿を止められて、内証甚深([深く悟ること])の法施([仏などに向かって経を読み、法文を唱えること])されました。ある時は鶏の声に宿を出ると月が茅店(茅葺きの宿)の屋根に残り、ある時は馬蹄で板橋の霜を踏んで、行路は日に厳しくなって、都を出てから、十三日にして、出雲の美保湊(現島根県出雲市)に着きました。ここで船装い([出船の準備])して、渡海の順風を待ちました。
(続く)