太宰否顔色まことに解けて、「事以つて不難、我必ず越王の罪をば可申宥」とてやがて呉王の陣へぞ参りける。太宰否すなはち呉王の玉座に近付き、事の子細を奏しければ、呉王大きに怒つて、「呉と越と国を争ひ、兵を上ぐる事今日のみにあらず。しかるに勾践運窮まつて呉の擒となれり。これ天の我に与へたるにあらずや。汝これを知りながら勾践が命を助けんと請ふ。敢へて非忠烈之臣」のたまひければ、太宰否重ねて申しけるは、「臣雖不肖、苛しくも将軍の号を被許、越の兵と戦ひを致す日、廻謀大敵を破り、軽命勝つ事を快くせり。これひとへに臣が丹心の功と云ひつべし。為君王の、天下の太平を謀らんに、あに一日も尽忠不傾心や。つらつら計事是非、越王戦に負けて勢ひ尽ぬといへども、残るところの兵なほ三万余騎、皆逞兵鉄騎の勇士なり。呉の兵雖多昨日の軍に功あつて、自今後は身を全うして賞を貪らん事を思ふべし。越の兵は小勢なりといへども心ざしを一つにして、しかも遁れぬところを知れり。『窮鼠却て噛猫、闘雀不恐人』といへり。呉越重ねて戦はば、呉は必ず危ふきに可近る。不如先づ越王の命を助け、一畝の地を与へて呉の下臣と成さんには。しからば君王呉越両国を合はするのみにあらず。斉・楚・秦・趙も悉く不朝云ふ事あるべからず。これ根を深くし蔕を固うする道なり」と、理を尽くして申しければ、
太宰否(喜否)はたちまち上機嫌になって、「容易いことよ、必ずや越王(勾践)の罪を赦されるよう申し上げる」とやがて呉王(夫差)の陣へ参りました。太宰否はたちまち呉王の玉座に近付き、事の子細を奏すと、呉王(夫差)はたいそう怒って、「呉と越は国を争い、兵を上げることは今日ばかりではないぞ。そして夫差は運窮まって呉の囚われの身となったのだ。これは天が我に与えたものではないか。お前はそれを知りながら勾践の命を助けよと申す。忠烈の臣ではないのか」と申せば、太宰否が重ねて申すには、「わたしは不肖といえども、いやしくも将軍の位を許されて、越の兵と戦いを致し、謀略をもって大敵を破り、命を軽んじて勝つことを得ました。これひとへに臣が丹心([嘘偽りのない、ありのままの心])の功ではございませんか。君王ため、天下の太平を思っておりますれば、どうして一日も忠を尽くす心に背くことがございましょう。よくよく事の是非を計らいますれば、越王(勾践)は戦に負けて勢い尽きるといえども、残る兵はなおも三万余騎、皆逞兵鉄騎(たくましく勇ましい兵士)の勇士でございます。呉の兵は多くおりますが昨日の戦で功を立てた、今はただ賞を貪ることばかりを考えております。越の兵は小勢ですが心ざしを一つにして、しかも遁れられぬことを知っております。『窮鼠猫を噛む、闘雀は人を恐れぬ』と申します。呉越が重ねて戦えば、呉は必ずや危ないこともございましょう。しかればまずは越王(勾践)の命を助け、一畝の地を与えて呉の下臣となすべきです。そうすれば君王(夫差)は呉越両国を物にするのみならず、斉・楚・秦・趙も残らず我が物とすることができましょう。これは根を深くし蔕([植物の茎と果実を接続する部分])を太くする道でございます」と、理を尽くして申しました、
(続く)