高徳この事を思ひ准らへて、一句の詩に千般の思ひを述べ、密かに叡聞にぞ達しける。さるほどに先帝は、出雲の美保の湊に十余日御逗留あつて、順風に成りにければ、舟人艫綱を解いて御船装ひして、兵船三百余艘、前後左右に漕ぎ並べて、万里の雲に沿る。時に滄海沈々として日没西北浪、雲山迢々として月出東南天、漁舟の帰るほど見へて、一灯柳岸に幽かなり。暮るれば芦岸の煙に繋船、明くれば松江の風に揚帆、浪路に日数を重ぬれば、都を御出であつて後二十六日と申すに、御舟隠岐の国に着きにけり。佐々木の隠岐の判官貞清、国府の嶋と云ふ所に、黒木の御所を造りて皇居とす。
高徳(児島高徳)はこのことを思い浮かべて、一句の詩に千般([様々])な思いを込めて、密かに後醍醐天皇(第九十六代天皇)の叡聞に達したのでした。やがて先帝(後醍醐天皇)は、出雲の美保の湊(現島根県松江市)に余日逗留されて、順風になれば、舟人は艫綱を解いて船装い([出船の準備])して、兵船三百余艘が、前後左右に漕ぎ並べて、万里の雲となって配所に向かわれました。時に滄海は穏やかにして日は西北の浪に沈み、雲山は遠ざかり([迢々]=[遠く隔たる様])月は東南の天に上りました、漁舟が帰る頃と思えて、一灯が柳岸にかすかに灯っていました。日が暮れて芦岸に船が繋がれているのがかすかに見えました、明ければ松江の風に帆を上げて、浪路に日数を重ねれば、都を出てから二十六日目に、舟は隠岐国に着きました。佐々木隠岐判官貞清(佐々木貞清)は、国府の嶋(現島根県隠岐郡隠岐の島町)という所に、黒木([皮つきの丸太で造ったもの])の御所を造って皇居としました。
(続く)