宇都宮は、薬師寺次郎左衛門入道元可が勧めに依つて、兼ねてより将軍に心ざしを存じければ、武蔵の守師直が一族に、三戸の七郎と云ふ者、その辺に忍びて居たりけるを大将に取り立て、薩埵山の後攻めをせんと企てけるところに、上野の国の住人、大胡・山上の一族ども、人に先をせられじとや思ひけん。新田の大島を大将に取り立て五百余騎薩埵山の後攻めの為とて、笠懸の原へ打ち出でたり。長尾孫六・同じき平三・三百余騎にて上野の国警固の為に、兼ねてより世良田に居たりけるが、これを聞くと均しく笠懸の原へ打ち寄せ、敵に一矢をも射させず、抜き連れて懸け立ちけるほどに、大島が五百余騎十方に被懸散、行方も不知成りにけり。宇都宮これを聞いて、「この人々憖ひなる事為出だして敵に気を著けつる事よ」と興醒めて思ひけれども、「それに不可依」と機を取り直して、十二月十五日宇都宮を立つて薩埵山へぞ急ぎける。
宇都宮(宇都宮公綱)は、薬師寺次郎左衛門入道元可(薬師寺公義。宇都宮一族らしい)の勧めによって、将軍に心を寄せていたので、武蔵守師直(高師直)の一族に、三戸七郎(高師親)という者が、近くに忍んでいたのを大将に取り立て、薩埵山(現静岡県静岡市清水区にある薩埵峠)の後詰め([敵の後ろへまわって攻める軍隊])をしようと考えてるところに、上野国の住人、大胡・山上の一族どもが、人に先を越されてはと思ったか。新田の大島(大島氏)を大将に取り立て五百余騎で薩埵山の後詰めのために、笠懸原(現群馬県みどり市?)に打ち出ました。長尾孫六・同じく平三は三百余騎で上野国の警固のために、世良田(現群馬県太田市・伊勢崎市)にいましたが、これを聞くと同じく笠懸原へ打ち寄せ、敵に一矢をも射させず、抜き連れて([大勢の者が一斉に刀を抜く])駆け回ったので、大島の五百余騎は十方に駆け散らされて、行方も知れずになりました。宇都宮(公綱)はこれを聞いて、「この人々はうかつなことをしたものよ敵に気を付けるべき」と薩埵山に向かう気も失せましたが、「それは関係なし」と気を取り直して、十二月十五日に宇都宮を立って薩埵山に急ぎました。
(続く)