斯かりし後は、高倉殿に付き順ひ奉る侍の一人もなし。篭の如くなる屋形の荒れて久しきに、警固の武士を被居、事に触れたる悲しみ耳に満ちて心を傷ましめければ、今は憂き世の中に永らへても、よしや命も何かはせんと思ふべき、我が身さへ無用物に歎き給ひけるが、無幾程その年の観応三年壬辰二月二十六日に、忽ちに死去し給ひけり。俄かに黄疽と云ふ病ひに被犯、無墓成らせ給ひけりと、外には披露ありけれども、まことには鴆毒の故に、逝去し給ひけるとぞささやきける。
この後は、高倉殿(足利直義。足利尊氏の弟)に付き従う侍は一人もいませんでした。まるで篭のような屋形は荒れて久しく、警固の武士を囲まれて、事に触れて悲しみは耳に満ちて心を痛ませ、今は憂き世の中に永らえても、命の甲斐もないと思われて、我が身を無用の物と嘆いていましたが、ほどなくその年の観応三年(文和元年(1352))壬辰二月二十六日に、たちまちにして死去しました。にわかに黄疽という病いに冒され、はかなくなったと、外には披露がありましたが、本当は鴆毒([鴆の羽にあるという猛毒])のために、逝去したと人々はささやき合いました。
(続く)