佐殿これを見給ひて、執事井の弾正を近付けて、「いかがあるべき」と問ひ給へば、井の弾正、「凶を聞きて慎しまずと言ふ事や候ふべき。ただ今夜の御遊をば止められるべきとこそ存じ候へ」とぞ申しける。佐殿げにもと思ひ給ひければ、にはかに風気の心地ありとて、竹沢をぞ帰されける。竹沢は今夜の企て案に相違して、安からず思ひけるが、「そもそも佐殿の少将の御局の文を御覧じて止まり給ひつるは、いかさま我が企てを内々推して告げ申されたるものなり。この女姓を生けて置きては叶ふまじ」とて、明けの夜密かに少将の局を門へ呼び出で奉て、差し殺して堀の中にぞ沈めける。痛はしいかな、都をば打ち続きたる世の乱れに、荒れのみまさる宮の中に、年経て住みし人々も、秋の木の葉の散々に、をのが様々になりしかば、頼む影なくなり果てて、身を浮草の寄る辺とは、この竹沢をこそ頼み給ひしに、何故と、思ひ分きたる方もなく、見てだに消えぬべき秋の霜の下に伏して、深き淵に沈められ給ひける今際の際の有様を、思ひ遣るだに哀れにて、外の袖さへ萎れにけり。
佐殿(新田義興。新田義貞の次男)はこれを見て、執事井弾正(井伊興種)を近付けて、「いかがするべき」と訊ねると、井弾正は、「凶と聞いて慎しまずということがございましょうか。今夜の御遊は止められるべきでございましょう」と申しました。佐殿はもっともなことと思い、にわかに風気の心地ありと申して、竹沢を帰しました。竹沢は今夜の企てがうまくいかなかったことに、心穏やかではありませんでしたが、「そもそも佐殿の少将の局の文を見られて御遊を止められたのは、きっとこの企てを内々推測して申したのであろう。この女姓を生かしておいては叶うまい」と、明けの夜密かに少将の局を門へ呼び出して、刺し殺して堀の中に沈めました。いたわしいことでした、都では打ち続き世は乱れて、荒れのみまさる宮中に、年経て住んでいた人々も、秋の木の葉のように散々になって、各々様々になりました、頼む影はなくなり果てて、浮草のの身のより所と、この竹沢を頼みにしていましたが、どうしてなのかと、思う隙もなく、見ては消える秋の露の下に臥して、深き淵に沈められる今際の有様を、思い遣るさえ悲しくて、他の袖さえも萎れるのでした。
(続く)