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「太平記」新田左兵衛佐義興自害事(その9)

程経て後、江戸遠江の守、竹沢右京うきやうすけを縁に取つて兵衛の佐に申しけるは、「畠山殿故なく懸命の地を没収もつしゆせられ、伯父甥ともに牢篭らうろうの身と罷りなる間、力及ばずとも一族どもを引卒いんぞつして、鎌倉殿の御陣に馳せ向かひ、畠山殿に向かつて一矢射んずるにて候ふ。ただしさるべき大将をあふぎ奉らでは、勢の付く事あるまじきにて候へば、佐殿を大将に頼み奉らんずるにて候ふ。先づ忍びて鎌倉へ御越し候へ。鎌倉中に当家の一族いかなりとも二三千騎もあるべく候ふ。その勢を付けて相摸の国を打ち従へ、東八箇国を推して天下をくつがへはかりことを廻らし候はん」と、まことに容易げにぞ申したりける。さしも心ざし深き竹沢が執し申すなれば、非所疑頼まれて、すなはち武蔵・上野・常陸・下総の間に、内々与力しつる兵どもに、事の由を相触あひふれて、十月十日の暁に兵衛ひやうゑすけ殿は忍んで先づ鎌倉へとぞ急がれける。江戸・竹沢はかねて支度したる事なれば、矢口の渡りの舟の底を二所ふたところいて、みを差し、渡しの向かふにはよひより江戸遠江とほたふみかみ・同じく下野しもつけの守、混物具ひたもののぐにて三百余騎、木の陰岩の下に隠れて、余る所あらば討ち止めんと用意したり。跡には竹沢右京うきやうすけ究竟くつきやうの射手百五十人選つて、取つて帰されば遠矢とほやに射殺さんと巧みたり。




程経て後、江戸遠江守(江戸長門ながかど?)は、竹沢右京亮を伝手にして、兵衛佐(新田義興よしおき。新田義貞の次男)に申すには、「畠山殿(畠山国清くにきよ)故なく懸命の地を没収されて、伯父甥ともに牢篭の身となりました、力及ばずとも一族どもを引卒して、鎌倉殿(足利基氏もとうぢ。足利尊氏の四男)の陣に馳せ向かい、畠山殿(畠山国清=道誓)に向かって一矢射る覚悟でございます。ただしそれなりの大将がいなくては、勢が付くことはないと思い、佐殿(新田義興)を大将にとお頼みする次第でございます。まずは忍んで鎌倉へお越しくださいますよう。鎌倉中には当家の一族少なくとも二三千騎はあると思われます。その勢を付けて相摸国を打ち従え、東八箇国を平定して天下を覆そうと考えております」と、まこと容易げに申しました。心ざし深い竹沢があえて申すことでしたので、疑うことなく了承して、たちまち武蔵・上野・常陸・下総に、内々与力する兵どもに、事の由を触れ回り、十月十日の暁に兵衛佐殿は忍んでまず鎌倉へ急ぎました。江戸・竹沢はかねてより支度していたことでしたので、矢口の渡り(現東京都大田区矢口)の舟底を二箇所彫り貫いて、鑿を差し、渡しの向こう岸には宵のうちに江戸遠江守(江戸長門ながかど?)・同じく下野守、混物具([直兜]=[一同そろって鎧兜に身を固めること])で三百余騎、木の陰岩の下に隠れて、漏らす兵あらば討ち止めようと用意していました。後には竹沢右京亮が、究竟の射手百五十人を選って、取つて返すことあれば遠矢で射殺そうと待ち構えました。


続く


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by santalab | 2016-01-31 09:56 | 太平記 | Comments(0)

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